ここみち読書録

プロコーチ・けいこの、心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

自分の中に孤独を抱け

先月、ようやく念願の「太陽の塔」を見に行くことができまして、そこに向かう電車の中で読みました。

自分の中に孤独を抱け」(岡本太郎 著、平野暁臣 編、2017年4月初版、青春文庫)

 

自分の中に孤独を抱け

 

「自分の中に毒を持て」、「自分の運命に楯を突け」に続くシリーズ第3弾。

自分の中に毒を持て」は私の人生のバイブルの1冊です。

「自分の運命に楯をつけ」はまだ読んでいないのですが、本書が第2弾と勘違いして、こちらを先に読んでしまいました。

 

世の中の”常識”を蹴飛ばす

本書に限ったことではありませんが、太郎さんの言葉に引き込まれるのは、世の中では、「これってこういうものでしょ」と、わかったような物言いに対して、全く逆の見方を言い抜いてくれるから。

そして、その大人ぶった態度に対して、冷ややかな視線を送って批判するんではなく、真っ向から、「そうじゃないよ!こうなんだよ!」とぶつかっていくその真っ直ぐさと、

太郎さんの知っている、より人間らしい世界に誘おうとする熱にも惹かれるのだと思います。

本書では、「孤独」「老い」「教育」、そしてもちろん「生き方」「人としてのあり方」について、私たちの目を開いてくれます。

 

孤独とは人間的な現実のあり方

とかく「孤独」を怖れてしまう私たち。

でも、私たちはもともとが孤独なのだし、むしろ孤独であれ、と説いてくれる。

 人間がいちばん人間的なのは、孤独であるときなんだ。だからぼくは言いたい。
 孤独を悲壮感でとらえるな。
 孤独こそ人間の現実的なあり方であって、狭い、特殊な状況じゃない。人間全体、みんなの運命をとことんまで考えたら、ひとは必然的に孤独になる。孤独であるからこそ、無限の視野が開ける。(p.10)

 

そして孤独であることが、自分が社会の中で生きているということを実感することにもなる。

 人間は、孤独になればなるほど人間全体の運命を考えるし、人間の運命を考えた途端に孤独になる。
 だから人間一人ひとりが孤独でなければいけない。それが人間の矛盾律だ。
 ひとはみな、この社会、集団のなかに生まれ、社会的存在として生きている。だが同時に徹底的に孤独な存在だ。ひとはだれもが”みんな”であると同時に孤独なんだ。
 みんな孤独を誤解している。(中略)
 孤独とは、しょんぼりしたり、がっかりしたり、自分の身を引くことじゃない。”ぜんぶ”の上に覆いかぶさり、みんなの運命、全人類の運命を背負い込む。それがほんとうの孤独だ。
 世界即己れ。そう考えて、人間全体の運命を背負い込もうと決意する。それが十余年のパリ生活の終わりにぼくが達した結論だ。(p.8-9)

 

私はどこまでこの太郎さんの言葉を咀嚼できているでしょうか。

今の私自身の理解では、「一人ひとりが個として自分の人生を受け止めた時、誰のせいにするでもなく自分の人生を生きたとき、人は初めて全体の一部であることも認識する」という感じかなと。そんな理解で合っていれば、感覚として、なんとなくわかります。

 

孤独であるとは、世の中に関わっていくこと

この「孤独」とは、ひとりぼっち、という意味ではありません。

ひとりで好きなことをやっていろ、という意味でもない。

 もうひとつ、これも誤解が多いが、孤独と単独はちがう。孤独であるってことは、全体であるということ。単独はそこから逃げちゃうこと。
 これまで日本では、純粋の保ち方として逃げることが是とされてきた。単独者が純粋だと思われてきた。
 でもそれはちがう。純粋とは逃げることじゃない。
 そうじゃなくて、みんなと対決すること、挑むこと、闘う孤独者であること。それがほんとうの純粋だとぼくは思う。単独で会っちゃいけない。
 そして、それを積極的にうち出していけば、おのずと孤独になる。
(中略)
 とことんまで自分を突きつめ、それに徹しきれば、その究極に豁然(かつぜん)と、人間全体の同質的な、一体となった世界が展開する。
  それが人間の誇りだ。(p.9-11)

 

孤独、すなわちしっかりと自分という人間をもって、とことん社会と向き合って生きていけ、社会に挑んでいけ、というメッセージを、本書全体から受け取りました。

特にそれを感じたのがこちらの一節。

 ともかく、ぼくがいちばん大事だと思うのは、生まれてきた、自分が生きているこの社会のなかでノーを突きつけること。でもみんな惰性的だ。それが腹立たしいんだよ。
 自分からノーを突きつけ、自ら犠牲者、つまり”生け贄”になる。そこからドラマを展開していく。
(中略)
 なにより大切なのは、ノーと言ったあとに、けっしてやめないことだ。
 ノーだからといって、「イヤだ、やめた!」なんてのはほんとうのノーじゃない。ぼくの言うノーとはノーと言いながら、あえてそれにはたらきかける、立ち向かっていくこと。
 さっきも言ったけど、ノーと言いながら逃げていたらドラマにならないだろう?
 たとえば若い学生たちはすぐ反体制と言うけれど、体制のなかでやらなきゃならないことは山ほどある。憤りをもつことはとても純粋なことだけど、人生は杓子定規に割り切れるものじゃないってことも忘れちゃいけない。
 人生は、そういう純粋なものと不純なものとの闘いなんだ。
 純粋なものが不純のなかにわけ入って、そのなかで血みどろになり泥まみれになって、それでもなお純粋をつらぬく。それがほんとうの純粋だ。(p.79-81, 太字にしたのは私の勝手な編集)

 

無関心、拒絶、といったものが、太郎さんの最も嫌いなものではないかなと思います。

一人の人間として、生々しく生きろというそのメッセージと同時に、

自分のことばっかり考えているんじゃなくて、もっと世の中のためにできることがあるだろう、それを思いっきりやれよ、と発破をかけられているとも感じます。

 

闘う原点

常に、自分にも世の中にも挑め、闘えと、読み手の心に火をつけてくれる太郎さん。

太郎さんをこよなく敬愛しつつも、「闘う以外の道はないのだろうか?」というのが最近のテーマである私は、どうしていつも「闘う」姿勢なんだろう?と不思議にも思っていました。

本書で、戦時中、中国戦線に動員されていたことがあると知り、またそこで見た日本軍の理不尽な行動が描かれている様を見て、この時の憤りが太郎さんの原動力の一つなのかもしれないな...と少し腑に落ちた気がしました。

 

少し長いですが、日本のダメなところが見事に表れている事例なので引用します。

 戦争中、ぼくは中国戦線にいた。輜重兵(しちょうへい)だったが、いちど最前線の激選苦闘の絵を描くようにとの軍命令で、歩兵の第一戦部隊に配属され、行動をともにしたことがある。
 村を占拠する。まず食糧を徴発し、洗いざらい召しあげてしまう。一晩野営して、出発する段になると、かならず部落全体を焼き払っていく。
 (中略)すぐあとから友軍が来るのに、と言うと、「バカ野郎、そいつらが使えないように燃やすんだ」とドヤされた。
 こんなこともあった。前線では食糧、ことに砂糖などといったら、命から二番目みたいに貴重なものだ。たまたまその貯蔵庫を見つけた。ふんだんに舐め、食べ、もてるだけもったが、たかがしれている。どうしても残ってしまう。
 驚くべきことに、それにみんなで小便をかけ、わざわざ汚物をまき散らして、あとから来る友軍が食えないように、メチャメチャにしたんだ。「ざまぁみやがれ」ってね。
  ぼくの知るかぎり、中国人に対する憎しみはあまりなかった。あたりまえだ。一方的に侵略していっただけなんだから。それよりも、友軍同士ーーー連帯単位では他の連帯を、その内部ではまた中隊、小隊、分隊同士、折にふれて猛烈な、ほとんど憎悪と言っていいほどの対抗心を燃やしていた。陸軍と海軍の徹底的な非協力、憎しみあいも有名な話だ。
 今考えてもユーモラスな思い出がある。部隊が集結し、(中略)宿営したときのことだ。ぎっしりつまってゴロ寝だ。
 水の不自由なところで、遠くの河まで汲みにいかなければならない。ところが雨が降ると、ちょうど一分隊の寝ているあたりの軒先がこわれていて、雨水が滝のように流れ落ちてきた。こいつを貯めておけばーーー。
 うまいことに空のドラム缶が一個ある。三分隊の所有だった。一分隊はこれを借りにいって軒先に置き、水を貯えて大喜びだった。
 三分隊の初年兵がその水を少し分けてもらいに来た。すると例の根性で、
「これは一分隊の水だ」と突っぱねた。
 断られ、すごすごと帰ってきたのを見て、三分隊の古参兵が怒った。
「なにを言いやがる。ドラム缶はこっちのものじゃないか。これっぱかりの水がどうして寄こせないんだ!」
 ねじ込まれれば、一分隊のほうもあとには引けない。
「ドラム缶は三分隊でも、水はこっちのものだ」とがんばる。 
「そんな理屈があるか。じゃ、ドラム缶を返せ」
「ケチな野郎らだ。ようし、そんなら返してやる」
 いきなりドラム缶をひっくり返した。せっかく貯めた水が、乾ききった地面にあっけなく吸い込まれていく。
(中略)
 ぼくはあっけにとられて見ていた。どっちも損しただけじゃないか。しかし両方が清々した顔をしている。まことに日本人だ。
 この話を聞いて、バカげていると笑うかもしれない。だがよく身のまわりを見渡してみて欲しい。お役所同士の縄張り、部や課の対抗意識、学校相互の敵愾心(てきがいしん)など、たがいに惨めにしあっている例、この種のナンセンスがいくらでも思いあたるに違いない。
「愛国心」と美名をうたっても、ほとんどがそういう狭い意識や郷党意識の延長なんだよ。身内以外は敵視する、などという排他的な心情のなかに、ほんとうの愛があるはずはない。
 世界があってはじめて「自分の国」という現実、その意識がある。あくまでも世界のなかの日本なんだ。
 常にこうした危機をはらむ対立のうえに、バランスを見きわめて国の運命に情熱をかけるべきであり、それがほんとうの愛国心だ。(p.136-140)

 

太郎さんが憤る事象はその前も後も有り余るほどあったと思いますが、どれであれ、憤りを持ち続けるのは、とてもエネルギーのいること。

多くの人は、長く生きていく中で、憤ることも、腹を立てることも忘れてしまいます。

そんなにエネルギーを消耗することをわざわざしなくなっていきます。

それを持ち続けている。

自分に、世界に、問い続けている。

そのことがこの人の圧倒的なインパクトになっているのかもしれない、と改めて思いました。

 

飛ばしてしまった2冊目も、読んでみたいと思います。

 

 

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