ここみち読書録

プロコーチ・けいこの、心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

どこの本屋さんにも置いてあるであろう、超ベストセラー。

いつかいつかと思いつつ、読めていませんでした。

ポッドキャスト番組「独立後のリアル」の相方がおすすめしていたのをきっかけに、今更ながらに読みました。

読んでよかった。

感じることも多く、正直、読書録に何をどう残しておけば良いかまとまらないでいます。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ 著、2021年7月初版、新潮文庫、単行本は2019年6月刊行)

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(新潮文庫)

 

内容は、副題の「The Real British Secondary School Days」が表しているとおり。

著者みかこさんの息子さんが通う"元底辺中学校”の生活で、息子さんが経験すること・感じること、そして著者とのやりとりが語られていきます。

 

英国のリアル

英国は私にとっては少し不思議な国。

ヨーロッパ大陸には数年住んだ経験があり、各国にも友人がいますが、ちょっと海を渡るだけで、英国は大陸の文化とはけっこう違うなと感じることがいろいろありました。

コンチネンタル・ブレックファーストと、イングリッシュ・ブレックファーストの違いだけではなく。

その感覚が何なのかはよくわからなかったのですが、おそらくその一つは本書にも表れてくる強烈な格差なんだろうなぁと改めて思いました。

いや、格差というより、日常に生活していると格差を感じないくらいに、”住む世界が完全に分かれている“感。

ヨーロッパ各国も、日本も、世界中のどこもかしこも、貧富の差はあるし、生活もだいぶ違う。

けれども、例えば日本にいると、いろいろな環境について、良い面も悪い面も、なんというか、明日は我が身であってもおかしくない気がするのですが、英国だと、そこには絶対に超えられない壁か溝がある感じ。もしかしたら、住む世界が違う人たちのことは見えていない感覚もあったりするのかな、とか。完全な勝手な推測ですが。

いや、でも、最近の日本も、もうそういう感じが起きつつあるのかもしれないです。

 

本書は、その、"なんとなく感じていた" けど、全く知らない世界の、リアルを教えてくれる本でした。

“底辺幼稚園”で保育士をしていたという著者・ブレイディみかこさんの視点と眼差しが素晴らしく、またその現場を経験しなければ書けないことを書いてくださっている、貴重な本。

 

多様性格差

この本が誕生できたのは、カトリック系の小学校に通っていた息子さんが、自らの意思で(もしかしたら、お母さんの意図も少しは汲んで?)、「ホワイト・トラッシュ(白い屑)」という差別用語で表現されるような白人労働者階級の子供が多く通う"元底辺中学校”に進学したから。


本書で初めて知ったのは、多様性に富んでいるのは、裕福なカトリック校の方だということ。

 そこへいくとカトリック校は人種の多様性がある。南米やアフリカ系、フィリピン、欧州大陸からのカトリックの移民が子どもを通わせているし、実のところ、近年、移民の生徒の割合は上昇の一途をたどっている。いわゆる「チャヴ」と呼ばれる白人労働者階級が通う学校はレイシズムがひどくて荒れているという噂が一般的になるにつれ、白人労働者が多く居住する地区の学校に移民が子どもを通わせなくなったからだ。(中略)
 こういう風潮のせいで、昨今の英国の田舎の町には「多様性格差」と呼ぶしかないような状況が生まれている。人種の多様性があるのは優秀でリッチな学校、という奇妙な構図ができあがってしまっていて、元底辺中学校のようなところは見渡す限り白人英国人だらけだ。(p.28)

他国では、移民≒貧困層となっていることを聞いていたので、"元底辺中学校"は生徒の9割が白人だというのを読んで驚きました。


そして、思いました。

「多様性って素晴らしい」なんて言っていられるのは、それ自体がとてもラグジュアリーなことなのかもしれないな、と。

日本も、早くから英語や国際的感覚を身につけさせたいと思う親御さんたちが、小中学校からインターナショナルスクールにお子さんを入れたりする例も増えていますが、学費はとんでもなく高額。通わせることができるご家庭は、極めて限られます。

こういう環境で育つと、肌の色や言葉や習慣など、全員が当たり前のように違うのだから、「それぞれの個性を大切にしよう」という教育も馴染みやすい。

他者の個性を尊重できない時があったときも、そのことに気づく機会もある。

けれども、例えば、海外旅行に行く余裕もない所得の家庭が集まる地域の公立の学校で、果たして、「多様性」という概念自体が、馴染んでいくものだろうか。

「多様性って大事」「多様性は必要」と、流行り言葉のように言われることが、どれくらい実感を持って耳に入ってくるのだろうか。

 

「多様性」の切り口

「多様性」という時、伝統的には、人種や国籍、文化圏が違うことを指すことが多く、最近では、性やジェンダー、考え方・受け取り方など個人の性格や身体の特性のことを指すことが増えてきたという印象です。

一方、最近私が意識が向くのは、経済的な側面や育つ環境の多様性です。

私自身、留学などの機会を得て、海外の友達もできて、彼ら・彼女たちとの生き方や考え方の違いには何度も驚かされてきましたが、そうは言っても、お互い、留学させてもらえるくらいの経済的・教育的環境がある、という意味では、その観点からは限られた範囲の多様性なのかもしれない、というのが最近思うところです。

本書で出てくるイギリス人は、私がまだ出会ったことがない類の人かもしれない。

日本国内であっても、私は、十分に世界を知らないなと思うことが沢山あります。

 

自分が日常過ごす世界の外は、自分で意識的に見ようとしなければ見えてこない。

自ら知ろうとしなければ、知り得ない。

もし、息子さんが小学校の友達と一緒にカトリックの中学校に進んでいたら、この世界には出会うことはなかったように、

自分から、異なる環境に出向いていかないことには知り得ない世界がある。

その世界の広さを思うと愕然としたりもします。

 

そんなところに意識を向けたり、わざわざ出向いて行ったりするのは、大変なことの方が多い。

本当に知ろうと思ったら、「多様性っていいよね」なんて呑気には言ってられず、面倒なことの方がはるかに多い。

何も知らずに、自分と同じような価値観の人たちの輪の中にいる方が良っぽどラク。

 

それでも著者は、多様性はいいことだ、と。

 

「でも、多様性っていいことなんでしょ?学校でそう教わったけど」

「うん」

「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものが、どうしていいの?」

「楽ばっかりしてると、無知になるから」

と私が答えると、「また無知の問題か」と息子が言った。以前、息子が道端でレイシズム的な罵倒を受けたときにも、そういうことをする人々は無知なのだとわたしが言ったからだ。

「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」(p.74-75)

 

無知だと、何が問題なのだろう?

少なくとも、無知だと、気付かぬうちに誰かを傷つけている、ということは大いに起こりそうです。

実際、「傷つけた」「傷つけられた」、どちらも身に覚えがあります。

 

人に優しくするためには、「優しくしよう」という気持ちだけではなく、自分の無知を自覚し、無知を減らしていくことは大事なことなのかもしれません。

 

エンパシーの時代

無知を減らすのと同様、多様性の時代を生きていくのに必要な力として出てくるのが「エンパシー」。

似た単語であるシンパシーとの対比で説明されています。

シンパシー(Sympathy):

1. 誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
2. ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
3. 同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解


エンパシー(Empathy):

他人の感情や経験などを理解する能力

(p.94, オックスフォード英英辞典のサイトを引用する形で)

 

つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーの方は「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。
 ケンブリッジの英英辞典サイトに行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。
 つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業と言えるかもしれない。
 EU離脱派と残留派、移民と英国人、様々なレイヤーの移民どうし、階級の上下、貧富の差、高齢者と若年層などのありとあらゆる分断と対立が深刻化している英国で、11歳の子どもたちがエンパシーについて学んでいるというのは特筆に値する。(p.94-95)

 

「決めつけないでいろんな考え方をしてみることが大事なんだって。シティズンシップ・エデュケーションの先生が言ってた。それがエンパシーへの第一歩だって」(p.156)

 

こういうことを「シティズンシップ・エデュケーション」なる授業でしっかり教えているイギリスの義務教育って、すごいなと思いました。

 

次世代は頼もしい

本書全体を通じて、息子さんのあり方やものの見方・考え方、そしてそれを表現したり行動に移したりする素晴らしい力が伝わってきます。

「ダニエルからひどいことを言われた黒人の子とか、坂の上の公営団地に住んでいる子たちとかは、いじめに参加してない。やっているのはみんな、何も言われたことも、されたこともない、関係ない子たちだよ。それが一番気持ち悪い」

と息子は言った。

「.......人間って、よってたかって人をいじめるのが好きだからね」

わたしが言うと、息子はスパゲティを食べる手を休めて、まっすぐに私の顔を見た。そしてあまり見たことのない神妙な顔つきになって言った。

「僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。......罰するのが好きなんだ」(p.249)

 

書名「イエローでホワイトで、ちょっとブルー」というフレーズも、生みの親は、息子さんです。

 

そして、その息子さんを見守り、対等な関係で対話をする、母・みかこさん、この2人の関係性がまた素敵だなと思いました。

 

こういう本を読む度に、世界はもう若者に任せた方が良いのではないかと思います。

年長者ができること・すべきことは、彼らを評価することではなく、彼らが視野を広げたり視座を高めたりすることを手伝い、感じること・考えることを手助けすることなのだろうと思います。

 

そういうことができるようになっていくように、私ももっと学ぼう。もっとエンパシーの力をつけていこう。

そんな風に思う読後でした。

 

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本書に出てくる本: