ここみち読書録

プロコーチ・けいこの、心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

さよなら、男社会

この初夏くらいから、尹雄大(ゆん・うんで)さんの本にハマっています。

困るのは、かなり食いついて読むのに、最後の方は、読み終わりたくなくて、すごくゆっくりになってしまうこと。

さらには、一冊一冊、感じることや考えさせられることが多くて、まとめきれず、言葉にならず、ブログが書けないということ。

でも、多くの人に読んでほしいから、書き始めてみます。


まずはこの本から。

さよなら、男社会」(尹雄大 著、亜紀書房、2020年12月初版)


本書は、著者が、男性からの目線で、男性社会の歪みを明らかにしている本です。

素晴らしい観察と洞察と自己開示、そしてそれを読ませてくれる文章力。


「論じる」だけなら他の方もできるかもしれない。

でも、男性が、その社会の中で何を「感じている」のか。

それに気づき、それを内側から文章にして表現できる男性は、経験の深さや自己開示の勇気も含めて、なかなかいないのではないかと思います。


男性に読んでほしい1冊。

自分たちが社会に及ぼしている影響と、自分自身が否応なく男性性を身につける中で失ってきたものを知ってほしい。

そして、自分の中に閉じ込めてきた痛みに気づき、自ら耳を傾けてあげてほしい。

強さと引き換えに失ってきた「感覚」を男性が取り戻し、自分と相手の存在を感じ始めた時、日本はもっと生きやすくなると思います。

また、男性社会の中で生き抜いてきた女性たちにも。「自分たちが感じていた言葉にならない違和感はこれだったか」、とすっと胸が通るのではないかと思います。

若い世代の男女は、これを読んでもいまいちピンとこないことも、あるのかもしれない。それはそれで歓迎すべきことかもしれない。

 

さよなら、男社会

 

私が生きてきたのは、”(男)社会”だった

この本を読んで私がまずハッとしたのは、大学を卒業して私が入ったのは、"社会”ではなく"男社会”だったんだ…! ということです。

総合職採用で、男性 対 女性の割合は9:1でした。ただ、数では圧倒的マイノリティでも、仕事の面で「女だから」ということで劣後するような扱いを受けることは感じませんでした。

なので、ジェンダーというテーマにも、あまり興味も持たなかった。

ただ、この本を読んでわかったのは、私は、男社会の秩序とルールにうまく適応したか、
もしくは、うまくやり過ごしてきた、ということでしかなかったんだ、ということです。

社会と聞けば、歪みはあるかもしれないけれど、社会という無色の空間が広がっていると何の気なしに思ってしまう。彼女たちにとって社会とはそんな透明性の高いものではなく、目前にしているのはいつだって「男社会」に他ならない。なのに男にはそれが「社会」としか見えていない。(p.18)


私は、女性でありながら、無色の空間と思っていた。

「ちょっと感覚的すぎてわからない。もっと論理的に話してくれないかな」
「それは君の主観でしょ?根拠はあるの?」(p.19)


これらの返しや要求に、「そうか、論理的に話さないといけないんだ」「客観的な根拠を示さなくてはいけないんだ」と疑いもなく信じて、そうできるようにと組織の中で自分を鍛え上げてきた。

だって、それが”社会”に出たら必要なことだと思っていたから。

 ともあれ論理ではなく「論理的」であることを重んじ、ディテールを把握する余裕のない、縮約したことを聞きたがる耳には、彼女らの声が届かない。ここで重要なのは話ではなく「声」なのだ。彼らは意味にしか注意を向けない。それが論理だと思っているからだ。
 声を聞けないものは、マンスプレイニングをせっせと始めてしまう。マン(男)+エクスプレイン(説明)から造られた語が意味するのは、「君はものを知らないのだから教えてやろう」と言った、無邪気にも主導権をとれると思える不遜さだ。彼女たちがそれに出くわした際、「そうなんですか」「すごいですね」と返すのは、「女性は共感性が高い」からではなく、逆らうと面倒なのと、そうやって褒めてやらないとぐずり出すと経験的に知っているからであって、男たちの能書きに同意しているわけではない。
 マンスプレイニングでないとすれば、次に出会うのは「要するに何が言いたいのか」といった定番の詰問のフレーズだ。これは職場に限らない。パートナーとの会話でも出くわす。恋人や夫婦であっても、そのような調子で言葉が用いられるのが不思議でもないのは、社会の実態が「男社会」であれば、公私の別なく関係性に影響を与えるからだ。それにしても、なぜそうまでして「要したがる」のか。
 彼女たちは「(男)社会」の既存のやり方に従って話すことを求められる。古参のメンバーからは、それに基づくやりとりはちゃんとしたコミュニケーションに見えるだろう。でも、そこに参入し、彼らのやり方を身につける立場からすれば、このコミュニケーションはどう映るだろう。「要するに何が言いたいのか」とは「俺のわかるように話せ」にほかならず、いま現に話していることを受け取らない、拒絶のメッセージでしかない。
 どうして一方が当然と思っている理解の形にはまらないとコミュニケーションと呼ばれないのか。そのことについて男たちは考えたことがあるだろうか。考えずに済んでいるのは、やはり社会とは「(男)社会」であり、(男)の箇所が見えていないからだ。(p.22-23)


「彼らのやり方」に合わせられるようなトレーニングは、もう大学の頃から始まっていたような気もする。


「言ってることがよくわからない」と言われた時、もしかしたら、こう思ったとしても良かったのかもしれない。

どうして、あなたはうまく説明できない私を理解しようとしてくれないのですか?
どうして、あなたは私の気持ちを聴いてくれないのですか? と。


そんな疑問や発想が当時の自分にはなかったことに、我ながら衝撃を受けています。

むしろ、後輩たちにだって、「もっと相手にわかるように話さないとダメだよ」と論理性や客観性を備えるように指導していたと思う。


上記の(男)社会のコミュニケーションにないものは、感じること、気持ち、思いやり、相手をわかろうとすること、など。


今、コーチングを生業するようになって、これらの大事さをクライアントさんたちにもよく伝えています。

リーダー的な役割にある方には、特に、です。

だから、今なら思えるのです。

もっと「何を感じているか」にフォーカスした対話をリクエストすることが至極真っ当であるし、むしろ必要な提案である、ということが。

 

「女性らしさ」のオンとオフ

"ジェンダー"というイシューから私が勝手に想像していたのは、「女性らしく」から解放されよう、という方向の話。

プライベートでは、確かに私も「女性らしくあらねば」という呪縛に苦しみまして、鹿島茂さんの「最強の女」は、「女性とはこうあるべき」から私を解放してくれて、一つのパラダイムシフトが起きました。

一方、仕事の面においては、その呪縛はほとんど感じたことはなかった。

だから、繰り返しになるけれども、働くことに関してのジェンダーイシューにはあまり関心がなかった。


本書を読んで気づいたのは、私に起きていたのは、逆に「女性らしさ」を抑制していたんだな、ということです。

それに気づいたら、自分自身もとてもジェンダーの話の当事者に思えてきた。


何を女性らしいというかをここで論じたい訳ではないですが、
古くから言われる女性性の概念で言えば、例えば、やわらかさ、思いやり、愛情、感情、感性など。

私にも生まれ持ったこれらのものがあったであろうに、総合職として生きてくる中で、おそらくそれらは使わないでいた。もはや無意識に。

一方で、会食の席になったりすると、突然女性らしさが求められたりもする。

会話は優しく受け止めた方がいいだとか、気配りができた方がいいだとか。


私だけではなく、ビジネスの世界でやってきた女性たちは、女らしさを求められる場面ではそれをオンにして、オフィスの中に戻ればオフにして、男社会の流儀に従って生きてきた

それって、相当難易度の高いことだったのではないか、と今、思います。

「よく頑張ってきたね」と、ちょっと自分を労いたい気持ちです。

男性をも苦しめる男社会

本来、性別を問わず、一人の人間の中には、男性性も女性性も両方存在しています。

ただ、日本は、世界でも最も男性性の強い社会(参照:ホフステードの6次元モデル)。

偏って「男性性」を追求して生きることは、男性自身も苦しめます。

そう言ってもなかなかピンとこない男性も少なくないかもしれない。

もはやその苦しみや歪みも感じていないか、感じていたとしてもそれは生きていくのに当然なものと思い込んでいる方も多いので。


コーチングで男性のクライアントとセッションしていてよく感じることが、本書の中でも素晴らしく言語化されていました。太字のところは、私の方で太字にさせていただいています。

 男に限らず評価を求める「承認欲求」は誰しも持っているし、それが悪いわけではない。けれども男たちの間では、そのことの何がことさら問題になるのだろうか。僕らの間では承認されるとは「大人」としてではなく、あくまで「男」として扱われるところが重要になってくる。
 男として評価される価値は力強さ、頑張り、忍耐、決断、動じない心、やさしさなどがあるだろう。それら「男らしさ」が備える強さはやはり従うことにある。「イエス」と言い続けるところに特徴があるだろう。腕力と精神的な逞しさ、命じられたことをやり通す。少々の無理なことにも取り組む。できないことをできないと言わない。弱音を吐かずに遂行する。弱いものを守る。
 こうして並べてみるとわかるのは、男らしさはありのままの姿を示しても発現しないことだ。男は自身の強さを証明するために常に「強くあろう」としなければならない。男社会が要請する男になるためには、現状の自分を必ず否定しなくてはならない。(p.57-58)


なぜそうまでして強くあろうとするのか、イエスと言いたくないことについてまで飲み込もうとするのか。

本書では、彼らの背景にも想いを寄せているのが素晴らしいです。

(男性が)「社会は厳しいのだ。甘えるな」と口にするとき、その口ぶりはなじる調子であり、怒りが言葉を覆っている。(中略)
 しかしながら、その発言へと駆り立てる思いや感情に目を向けていくと、明らかになるのは社会の厳しさに出会って、傷ついた過去があることではないだろうか。弱音を吐いて助けを求めたが拒絶された。あるいは求めたかったが、弱者の烙印を押されることを怖れて口を閉じた。他人に受け入れられなかった、行き場のない悲しみが裏返って、解消されることのない怒りとして、男たちの胸の内にくすぶり続けているのではないだろうか。(p.72)


弱さを受け入れてもらえない痛みは、行き場を失って、自分を強化する方向にと向いていく。

「言うことを聞かない自分の中の存在」とは社会的に認められない稚拙さ、弱さを抱えた自分だ。これがあらわになると社会的に立ち行かなくなるという恐れを男たちは持っている。幼いときに言われた「もっとこうした方がいい」は、大人になったいまは「なぜ、そうしないのか」「言うことを聞かないおまえはダメだ」と頭ごなしの口調として心の中で響くようになっている。
 男社会の中で「社会的に認められない」としたら、それは男性の基準に達していないということだ。認められるために僕らは「もっとこうした方がいい」という諭し方の延長に存在する「本来ならば強いはずの自分」という考えを導入する。周りから「こうした方がいい」と言われた数だけやらなければならないことが増え、それができて初めて強い自分だと思えるようになるからだ。(p.75-76)


そして、心折れそうになっても、いや、折れそうになればなるほど、そんな自分を許さずに、もっともっとハードワークになっていく。もっともっと自分を痛めつける。

このループが何かおかしいことは、本能や直感は知っている。

でも、人生はそんなもの、それは真面目に取り合ってはいけないもの、と頭が止めてくる。

当の男性にしても、現行の社会のルールとそれに沿った生き延び方しか知らない。そのため男社会に完全に適応しきれないことで生まれる不満や苦しみを十分感じることもできないし、表現する言葉も持っていない。だから男たちは必死に男たちの群れと折り合いをつけることに力を注ぐ。またしてもここで力が登場する。耐え忍ぶことに何か意味があるはずだと思い込んでも、喉元で吐瀉物を飲み下すような不快感が襲う。
 なんのためにこんなことをしなくてはいけないのか。いちいち忖度して生きないといけないのか。一瞬、そうした疑問が頭を過ぎる。でもそれは嘘だ。本当はずっとずっと頭の片隅にあったことだ。そのことについて考え始めると叫び出しそうになる。いつも本当は思っていた。いい加減にしろと。なんで俺がこんな目に遭わないといけないのだと。おまえの前で俺がにこにこしているのは、罵倒し、殴りたい気持ちをごまかすためだ。堰を切ったように溢れだしかねない感情をそれでも必死に留めているのは、爆発したら最後、狂っている、まともではないと思われるからだ。(p.158-159)


読んでいると、こちらの胸も切なく、痛くなります。

感じることから始めよう

では、このループからどうしたら出られるか。

その出発点は、まず、「感じる」ことから。


意識的か無意識かを問わず、「感じる」ことを自らに禁じている男性は少なくありません。

そうでなければずにはやってこれなかった、ということでもあると思います。

だって、いちいち怒りや吐瀉物のような感覚を感じていたら、それを抑えるだけで大変だから。


本書では、繰り返し、男性が「感覚」を失っているという話が出てきて、その度に「感じる」ことの大切さ、感じることでしか得られないものについて語られています。

著者ご自身が感情を抹殺してきた経験があり、また、そこから回復した経験があるからこそ当事者として書ける内容でもあります。

僕らが男性性として受け入れた価値観が推奨するのは、「感じること」ではなく、「理解すること」だった。感じなさと引き換えに男たちは信念や思想のもたらす強さを手に入れた。
 信念も思想も言葉の組み合わせだ。言葉と自分とを結びつけ、そのつながり緊密になるほどに力強さを覚える。だが言葉は常に世界の断片としか言い表せない。膨大な量の言葉をどれだけ集めても世界全体にはならない。理解することが大事とあまりにも言われたせいで、理解は既に知られた事実しか対象にできないことをつい忘れてしまう。
(中略)
 男たちは多様にそれぞれのあり様を生きている人を「感じる」ことはおろか、「感じる」こと自体が含んでいる感覚の幅広さを経験してこなかった。だから男性性の発露が非難されると、男は自分が糾弾されているように感じてしまう。感じることをずっと忌避してきたので感じ方が拙いままなのだ。 (p.160)

 

実際、私も、コーチングでクライアントさんとセッションするときにとても大事にしていることが、この「感覚」や「感じること」です。

何のために?

それは、「感じる」ことがが自分自身や相手とつながりを取り戻す鍵になるから。

過去と未来を行き来する思考と、止まらない頭の中の高速回転ループを止めて、本当の今の自分を教えてくれるのは、この「感じる」ということだけだから。


その先には、自分の中に閉じ込めてきた痛みや悲しみ、怒りをしっかり自分で聴いてあげられる世界が待っています。一度は分断された自分が統合されていく世界です。

 男たちは強くなければいけないと誓ったとき、繊細に感じることや脆弱である自分を恥じ、それから自分を切り離した。男たちが痛みや恐怖に打ち勝ち、克服し強くなったと実感すればするほど、自分から自分を追いやり分割したのだ。そのことでふたつの傷を負った。ひとつは痛みと恐怖の体験による傷。もうひとつは脆い自分を殴りつけ、自分から追放したという自責の念が生む傷。これがもたらす痛みは、鬱散されることのない悲しみと怒りの感覚を沈潜させる。なぜなら男たちにはそれを吐露する文化がないからだ。強くなればなるほど、痛みと恐怖、怒りは増大し、しかもそれを感じていたはずの自身は放逐される。
(中略)
 もしも男性が女性の置かれている立場について考え、この社会の仕組みについて変革を試みたいと思うのであれば、まず対話をすべきは外の世界にいる彼女たちではない。自身からスプリットした自分という他者と対話する必要があるはずだ。分割したのがいくつの時かはわからないが、スプリットは子供の頃に始まったはずだ。僕らは男性性の獲得の名の下に子供の頃の自分に対して犠牲を強いてきた。自分の心の底にうずくまる彼らこそが男性性の問題を身をもって体験している。
(中略)
 対話の始まりは、目の前のあなたと目を合わせることから始まる。あなたが切り離したかつてのあなたは、傷つきいじけて目を合わせてはくれないだろう。同じ目の高さまで膝を折り、あなたから声をかける必要がある。その時の言葉は権力者の話し方ではないはずだ。客観的でも論理的でもなく、ただ相手をいたわり、相手のことを知りたいと願う気持ちからの言葉のはずだ。その言葉を口にするとき、僕らは初めてこれまで忘れていた感覚や感情を伴った話ができるようになるのではないか。(p.190-191)


コーチングでも、まさにここをやっています。

特に男性のクライアントさんや、男性社会の中で頑張ってきた女性とのセッションの中で最も価値があると感じる瞬間の一つは、傷ついた自分や、なんとか頑張って耐えていた自分がようやく出てきた時です。

「強くあらねば」という思いが無意識下にあるので、この弱さが表面に出てくるまでも、相当の葛藤があるように見えます。

その葛藤を超えて、本当の声、心の声を吐露する時、私はとても安堵します。

それは、コーチである私のために出している声ではなく、ご自分自身がようやくその自分を受け入れるための時間。やっと「ありのままの自分」を認め、許し、愛する時間です。そうしてやっと、自分自身とのつながりを取り戻せる。

涙するクライアントさんも珍しくなく、そういう時に、「すみません」とか、「こんな姿を見せて恥ずかしい」とおっしゃる方も少なくないですが、私からしてみれば、それは、セッションの中で、最も尊く、最も美しく、ご本人の心と肉体と魂が統合し、満たされていく瞬間であり、その瞬間に立ち合わせていただいている私としては、祝福と感謝しかありません。

コーチングは人間性回復運動だとも思っているのですが、これはその瞬間とも思います。

 

世の中にもう少し愛と優しさとつながりが必要だと思う昨今、男社会の中心にいる男性の方々にも、ご自分を感じながら、ご自分と対話をすることをおすすめしてみたいです。

そして、その痛みをもっと人と分かち合ってもいいのかもしれない、とも思っています。


そうすることで、男性も、女性も、誰が決めたか知らない”男らしさ”や”女らしさ”から解放されて、”人間らしく”生きられるのではないかなと思います。

 

男性がこれを読むとどう感じるのか、聴いてみたいです。

極めて個人的な体験で感じたことが語られている箇所もあり、わからないところもあるかもしれないです。私も理解が追いつかないところもあります。それでいいと思います。そういうところは飛ばしてもいいから、読んでみてほしい1冊です。

 

この記事は、こんな人が書いています。 

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この本を読んだ後、ポッドキャストでも少し取り上げさせていただきました。

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