夏の滞在先に置いてあった「死の壁」を読んで、とてもよく、「あ、やっぱりこれも読まないとな」と思い、養老さんの壁シリーズの最初の本に戻ってきました。
いつかは読もうと思いながら、機会を逃していた一冊。
「バカの壁」(養老孟司 著、2003年4月初版、新潮新書)
養老さんがインタビュー的に「独白」を続けて、それが文章になった本、ということで話は多岐に渡ります。
なので、得たもの、感じたものを一言でいうのは難しいです。
でもあえて一言で言うとすれば、私たちが日頃、無意識に偏っている考え方や行動の仕方に、「それが当たり前じゃないよ」「それはむしろ退化だよ」「大事なところを見落としているよ」と示唆を与えてくれる本だと感じます。
新しい視点をもらった、と感じる人もいるでしょうし、社会や組織のあり方・日本人の考え方や行動の仕方について何らかの違和感を持っている人は、それを言語化してもらえてスッとしたり、安心したりするかもしれません。
解剖学者として、(死体も含めて)いろんな人間に直接接してきた人の言葉だから、地に足がついた話として、読むことができるとも感じました。
「バカの壁」とは
バカの壁という言葉は、養老さんの初めての著書である「形を読む」(当時、培風館より出版)の中で使われた言葉、とのこと。
結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。そういうつもりで述べたことです。(p.5 まえがき)
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。(p.194)
その一つの例はこんなふうにも表れる。
つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。(p.14)
これは本当にそう思います。
自分自身もそうだし、コーチングのクライアントさんもそう。
ポッドキャスト・独立後のリアルの中でもよく言っていますが、「人間は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない」存在だなと思います。
放っておけばもちろん欲しい情報しか取りに行かないし、さらには、みんなに同じ情報を見せたところで、結局は、その中から自分の考え方に合うものしか取り入れない。
ある程度の段階まではこれで何も問題なく、むしろ余計な情報に惑わされない良さもあり、それが個性と捉えられる側面もあると思うのですが、例えば組織のリーダーや政治家とかがこのことに自覚的でないと困る。
経営や社会の中には、「こうあって欲しい」「こうであるべき」とは違うことがゴロゴロあるのだから。その情報を遮断していると、組織も社会もおかしなことになっていくだろうなと思います。
自分の考え方や自分の経験と相容れないものは、なかなか入ってこない。入ってきても受け入れ難い。
ーーーこういう情報の遮断が、誰にでも起こる、自分にも起こるということに、自覚的でいることが大事だろうなと思います。
なので、本当のバカは、「自分にはバカの壁はない」と言ってしまう状態だろうと思います。
例えばこんなふうに。
現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、と言うことを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実社会について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっています。(p.19)
日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。(p.18)
脳内の情報の入出力を、「y=ax」という一次方程式で表しているのは面白いなと思いました。
同じ情報xが入っても、「現実の重み」としての係数aがどれくらいかによって、その人の反応yの量は変わってくる。aがゼロっていうときもある。そしたら反応はゼロ。(p.31あたり)
自分には、a=ゼロの領域があるかもしれないと知っておくこと、
aの値は人によって違うということを知っておくこと、
aという値を自分が適当と思う域にしておくこと、
多様性が尊重される社会を目指そうとするなら、これらのことに市民一人ひとりが意識的である必要があるだろうなと思いました。
昨今、EQ(感情指数)という言葉をよく耳にしますが、これは簡単に言えば、感情、情動ということでしょう。情動というのは、脳の仕組みから捉えれば、入力に対して適切な重みづけが出来る、ということなのです。(p.39)
個性とは何か
いろいろと興味深い話が続きますが、この読書録には、私の備忘録として、「個性」に関する部分を引用させていただこうと思います。
コーチングにおいでになる方々のうち、少なくない方々が、「自分らしさ」とか「自分にしかないもの」のようなものを求めていらっしゃいますが、そんな方々には、この言葉を贈りたいです。
脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の「個性」というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。
なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。親の皮膚をもらって子供に植えたって駄目です。無理矢理やるとすれば、免疫抑制剤を徹底的に使うなんてことをしないと成功しません。
皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、「個性」なんていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。(p.49)
むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事なのです。みんなと画一的にすることを気にしなくてもいい。(p.69)
わざわざ「個性」を探さなくても、もう存在自体が個性的。
では、何が私たちを苦しめているのかといえば、一つは社会。
今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。会社でもどこでも組織に入れば徹底的に「共通了解」を求められるにもかかわらず、口では「個性を発揮しろ」と言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。
要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのはずいぶんおかしな話です。(p.45-46)
自分を苦しめるもう一つは、自分自身だろうと思います。
生きている人間というのはひたすら変わっていくのに、俺は「不変の情報だ」と頑張る人。個性尊重という言葉はここから出てくるわけです。(p.66)
自分という人間、自分の中にはれっきとした”個性”なるものが存在しているはずだ、という思い込みが、自分を苦しめる。
人間、日々感じ方や考え方が変わるのはとても自然なこと。
なのに、「こういう自分もいるけど、こういう自分もいる」ということへの許容がないか、あるいは、どちらかに決めなくてはならないと思い込んでいる方が意外と多い気がします。
「本当の自分はどっちなのだろう?」と決めようとして、それがブレることにまたストレスを感じたりする。
どっちも本当のご自分なんじゃないですか?とよくセッションの中でもやりとりします。
(こういう言葉を伝えると、キョトンとする方も、けっこういらっしゃいます。)
少し長いですが、この部分の解説が、とてもしっくりきました。
流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理とよんだ。真理は動かない、不変だと思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。
現代社会は「情報化社会」だと言われます。これは言い換えれば意識中心社会、脳化社会ということです。
意識中心、というのはどういうことか。実際には日々刻々と変化している生き物である自分自身が、「情報」と化してしまっている状態を指します。意識は自己同一性を追求するから、「昨日の私と今日の私は同じ」「私は私」と言い続けます。これが近代的個人の発生です。
近代的個人というのは、つまり己を情報だと規定すること。本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。
だからこそ人は「個性」を主張するのです。自分には変わらない特性がある、それは明日もあさっても変わらない。その思い込みがなくては「個性は存在する」と言えないはずです。
(中略)
脳化社会にいる我々とは違って、昔の人はそういうバカな思い込みをしていなかった。なぜなら個性そのものが変化してしまうことを知っていたからです。
昔の書物を読むと、人間が常に変わることと、個性ということが一致しない、という思想が繰り返し出てくる。『平家物語』の書き出しはまさにそうです。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文から、どういうことを読み取るべきか。鐘の音は物理的に考えれば、いつも同じように響く。しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか。それは、人間がひたすら変わっているからです。聞くほうの気分が違えば、鐘の音が違って聞こえる。『平家物語』の冒頭は、実はそれを言っているのです。
『方丈記』の冒頭も全く同じ。
(中略)
では、中世以前はどうか。平安時代というのは、まさに都市の世界です。人間が頭の中で作った碁盤の目のような都市が作られている。今の我々とよく似た時代です。
その時代には、きっと「私は私だ。変わらぬものだ」と藤原道長あたりが言っていたに違いない。しかし実はそうではない。人生は万物流転なのです。
肉体も変われば、見え方や感じ方だって変わる。
見え方や感じ方が変わってくるひとつのきっかけは、「知る」ということ。
知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。(p.60)
「知る」ことで、見えていなかった世界が見えてしまった。
そうすれば、価値観だって変わり得る。
「知る」とは、まるで「死ぬ」こと。(p.59)
一度死んでまた生まれ変わる。
新しい見え方、感じ方、価値観で、また生きる。
生きながらに、何度でも死んで生まれ変わる。
それは、とても自然なことのように思いますし、それに逆らうことはとてもストレスを生みます。
個人のレベルにとどまらず、「人は変わる」ということを許容すること、そして、知って(死んで)生まれ変わることは、世界の平和のためにも必要なことであること、そして、そのためにも自分で体を動かして、自分で考えて、視界を広げていけ、という養老先生のメッセージも伝わってきます。
自分自身がいつでも変容可能でありたいと思いますし、また社会も、個々人と社会の変化を許容するものであるといいなと思います。
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