数ヶ月前ですが、荒俣宏さんと鹿島茂さんの対談「天使はほほえみ、悪魔はささやく/終わりのない古書探しの旅 II」を拝聴してきました。
日比谷図書館で「特別展鹿島茂コレクション2『稀書探訪』の旅 | 」という展示をやっていて、それに関連する対談でした。
このお二人の共通項は、異様な程に、古書・稀書のコレクターであること(荒俣さんは本に限らない。鹿島さんも、本の域を超えて出版物、印刷物まで広がってる)。
どれくらい異様かといえば、鹿島さんは自己破産寸前まで行ったとか、荒俣さんは古書か一家心中かという話だとか。
お互いが競り合っていることを知らずに、お互いで値を上げ続けていたというお話は笑ってしまいました。
この対談で、お二人がおっしゃっていたことは、
「みなさん(対談を聞いている私たちのこと)のこれからの人生は、どれだけクズを集められるかにかかってる」と。
というのも、
「自分たち(荒俣さん・鹿島さん)が集めているものは、他人からみたらクズばっかり」だと。
だけど、そこから、着想が生まれたりする。そこから価値を創り出していらっしゃる。
作家ってそういうことだな、と。
前置きが長くなりましたが、本書は、語弊を恐れずにいえば、そんなクズ集めから生まれた可笑しな洞察集、という感じ。
「セーラー服とエッフェル塔 」(鹿島茂 著、文春文庫、2004年初版。初出「オール讀物」1998年6月号〜2000年7月号、単行本2000年10月)
なんといっても、鹿島さんの着眼点が独特。
そして、そこを、世俗的・文学的・歴史的・政治的、あらゆる観点から探究してしまうことができてしまうのが鹿島さん。普通はここまでできない。
解説を書いている丸山才一さんは、「滑稽談笑の層の下に雑学的考証の層があり、その底には思考の方法を教えるアリストテレス的な層が控えている」(p.250)と表現なさっている。まさに。
どんな探究内容、どんな探求の仕方なのか、というのは鹿島さんご本人自らが、あとがきに書いていらっしゃる。
見渡せば、世の中、じつに多くの不思議や謎に満ちている。
ただ、大多数の人はそれを不思議とも謎とも疑ってみないだけである。
たとえば、女性の乳房はなぜいつも膨らんでいて、男性はそれに愛着を覚えるのかという不思議、また男性のペニスはなにゆえに、勃起時に平均13センチにも達するのかという疑問。
これらの問題は、それ自体しか見ない人間にとっては、疑問でもなんでもない。 まったく自明の事柄だろう。だが、しかるべき本を読んでみると、それらは、ほとんど永遠に解けないような巨大な疑問として研究者の前に立ちはだかっていることがわかる。なぜなら、人類以外で乳房が常時膨らんでいる哺乳類はほとんどいないし、またゴリラのペニスが勃起しでもわずかに3センチであると調べがついているからである。
また、日本だけに定着して、いまだに根強い人気を誇っているセーラー服というもの。これも、いったん考え出すと、いかにも多くの謎に包まれていることが判明する。なぜ、日本でだけセーラー服が女学校の制服となり、男たちのエロティックな夢想の対象となったのか、その経路がよくわからない。
さらに、日本だけで独自の発達を遂げたSMの亀甲縛りというもの。いったい、このいとも珍奇なる緊縛法は、なにを契機として日本に誕生したのか?あるいは、情死・心中という過激なる愛の解決法が日本特有なのはなにゆえなのか?
疑問が湧いてくるのは、むろん、こうした エロスと結びついた領域にはとどまらない。日本人が外国語の会話が下手な原因はなんなのか? イギリス人とフランス人は、なにゆえに、牛肉の食べ方やコーヒー・紅茶の飲み方でかくも対照的な違いをみせるのか?
さらには、キリストが血まみれの残酷な姿で十字架にかけられているのは、いったいなんのためなのかという大疑問に至るまで。
このように、自明の事象として、多くの人にとっては問題とさえならないことが、本を読むことで、まず大きな疑問としてあつかわれているのを知ることができる。さらに、著者たちが懸命に仮説を構築し、答えを出そうと努力している姿に接することができる。
もちろん、いくら本をあたっても未解決のままの疑問も少なくない。しかし、最低でも、それらが、だれかの手によって疑問として呈されていることを知ることは可能だし、それを手掛かりに、独自の仮説を大きく膨らませることも許されるのである。
ことほどさように、本というのは、まことにもってありがたいものであり、かけがえのない人類の財産なのである。私は、これらの大問題をあつかった本に接するたびに書評に取り上げ、できるかぎり紹介につとめてきたつもりである。
しかるに、昨今では、どうやら、こうした努力は全て空しく、本は1ヵ月もしないうちに書店の棚から消えてゆく。
それと共に、あらゆることに疑問を抱き、まず前提を疑ってかかる懐疑的精神も衰えていくように思える。
どんな矮小な事柄にも、またいかに壮大な事象にも、ひたすら懐疑的精神を持って臨むべし、これが近代合理精神の出発点ではなかったか?
こうした危惧から執筆を思い立ったのが本書である、と、いいたいところだが、じつを言えば、そんなに大それたことではなく、冒頭でも触れたようなことに対しても仮説癖が働いて、そのたびに、手あたり次第に本を乱読して、センス・オブ・ワンダーを味わってきたにすぎない。
ただ、ひとつだけいいたいのは、仮説への手掛かりも、センス・オブ・ワンダーの発見も、たいていは本のうちにあるということである。
したがって、本書は、少し時間差をおいた、真におもしろい本への案内・紹介であるということができる。(単行本あとがき p.246-249、2000年9月18日)
本書が何かの役に立つのか?と言われたら、多分役には立たない。
けれども、この多角的視点に面白味を感じる人はいるかもしれないし、こういう面白いものがこの世から消えたら世界も終わりだとも思う。
それから、こういう視点を持っていると、少し世の中を引いた目で見ることもでき、現代の常識の中で苦しんでいる時には、きっと救いになると思う。
余談ながら、驚いたのは、この本は私の父が持っていたものだということ。
何かの会話のついでに「最近、鹿島茂さんという人の本にハマっている」と言ったら、俺も何冊か持ってる、なんか視点が面白い人だよな、と引っ張り出してきた数冊のうちの1冊がこちら。
親子は作家や本の趣味まで似るのだろうか。これも鹿島先生の仮説を伺ってみたいところ。
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その他の鹿島さんの本の読書録:
本書で出てくる本(Amazonで見つけることができたもののみ):