ここみち読書録

プロコーチ・けいこの、心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

だめだこりゃ

コーチングを提供していると、クライアントさんのおかげで自分の世界が広がることがよくあります。

だいぶ前、セッションの中で、ドリフターズのいかりや長介さんのフレーズ、”だめだこりゃ”が出てきたことがあり、まさにそのタイトルの本が出ていたので、そのとき買ってありました。

そうでなくても、本人の言葉で綴られた人生の物語を読むのは好きです。

事実は小説より奇なり。

こんな道を歩いてきた人だったんだ〜!へぇ〜!と驚きながら読みました。

だめだこりゃ」(いかりや長介 著、新潮社、2001年4月初版)

 

だめだこりゃ(新潮文庫)

 

名字は本名だったんだ!

本名は「碇矢長一」さん。「いかりや」は芸名だと思ってました。

母は4歳の頃に結核で他界、築地の魚河岸で働く父とその母(祖母)に育てられる。

幼少期から父に連れられて見たものが、その後の長さんに影響しているエピソードがいろいろ。

中学生になると同時に戦争で静岡に疎開。父も徴兵され、祖母に育てられる。戦後、父は復員。中学を出て製紙工場で働いて、その頃の至福の時は、映画館で笑うこと。

あの時代の人はみんなそういう大変な経験をしているはずで、だからこそ、笑いというのが今よりももっと切実に必要だったんだろうなぁと思います。

そういうつらい過去はテレビではまったく見せない。こうやって本人の口から紐解かれるまで、出てこない。自伝は私たちには見えていなかった一面が見えるところが本当に貴重だと思います。

お父さんとの思い出は読んでいてもとてもじんわりして、長さんの人柄が伝わってきました。

 

文字通りのドリフター

ドリフター(Drifter)とは、漂流者、放浪者、という意味。

長さんは元々はバンドをやりたかった人。ハワイアンバンドからロカビリーに転じ、さらにカントリーに転じ、「マウンテン・プレイボーイズ」というバンドにいた人。

「櫻井輝夫とザ・ドリフターズ」を見てみてほしい、と言われて見に行ってコメントしたところからドリフターズに入り、三代目リーダーとなっていく。

ドリフで一世風靡したその後は、大河ドラマ「独眼竜政宗」を機に俳優業へ。

日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した時の回想がまさに、ドリフター・長さんを物語っています。

 

役者の仕事をするようになったのは、コメディアンの延長で、コメディアンになったのはバンドをやっているうちに笑いをとるのが好きになったからで、バンドを始めたのは女にもてたかったからだ。私は自分のいい加減さにあらためて茫然としながら、最優秀賞を受け取り、モゾモゾと挨拶の言葉を述べた。晴れがましさなど、感じる余裕もなかった。(p.211)

 

 ドリフを始めたときは、誰一人として、まさかドリフの名前を墓場まで持っていくことになるとはおもわなかったはずだ。
 すべては成り行きだった。偶然だった。
 誰一人、ずば抜けた才能を持つメンバーはいなかった。他人を蹴落としてまで芸能界で生き抜いていこう、という根性の持ち主もいなかった。テレビにで始めた頃に「クレージーキャッツみたいになろう」とおもったくらいで、確固たる目標すらなかった。
 ドリフターという言葉を英語の辞書でひけば、流れ者とか漂流物と書いてある。私たちは名前通り、漂流物のように潮の流れるままに流されてきたのだとおもう。
 からっけつの五人が集まっていたら、クレージーさんが忙しくなったんで、渡辺プロが穴埋めのためにドリフを拾ってくれた。渡辺プロは吉本みたいに芸人がいっぱいいるわけではなかった頃だし、クレージーの後釜に支給コメディ・グループを探しているところだったから、贅沢言ってられなかったのだろう。ま、ドリフでも仕方ないやと、渡辺プロの番組に積極的に使われるようになった。ドリフはそんなに苦労もしないまま、忙しくなった。馬鹿でもそれだけ数をやらされたらコツも飲み込むから、なんとかやってこられた。
 それだけの話だ。
 私はテレビに出てお笑い界のトップに立ちたいと願ったこともなければ、映画に出て演技賞を欲しいとおもったこともない。(中略)修行の経験もない。せいぜい田舎でベースを弾いていたくらいで、まさか自分の腕が東京で通じるともおもってもいなかった。だから上京すら夢のまた夢のはずだった。すべては偶然、偶然、偶然。偶然の力によって、私はひたすら流されてきただけだと、つくづく感じるあのアカデミー賞の会場でもそうしたように、「何でこんなことに」と自問し続けてきた半生だった。
 私の人生に残り時間がどれだけあるかはわからない。ただ、ハッキリしていることは、これから先も「ザ・ドリフターズ」の名前通り、漂流物のごとく、流され続けて行くことだけだ。
 こんな人生があってもいいのだろう。(p.213-215)


この偶然をつくってきた一つは、人との出会いだろうと思います。

どんな人とどんな風に出会ってきたかは本書で読んでみてください。

 

経験がプロをつくる

本書(単行本)の帯の言葉はこちら。

音楽は四流、笑いは素人。でも、それがドリフターズだった。


もともとは音楽をやるためのグループ。目指すはクレージーキャッツ。

といって、全員が楽器が特別上手なわけでもない。

なのに、ザ・ビートルズの来日時(1966年)には、前座として出演することになり、奇策を練って1曲だけやり切る。

「武道館で最初に音楽ライブを行なったミュージシャン」としては、ザ・ビートルズと言われるけど、実はザ・ドリフターズだったという驚きの事実。

 

彼らをお茶の間のスターとして決定づけた「8時だョ!全員集合」は、TBSプロデューサー居作昌果(いずくりよしみ)さんによる、フジテレビの「コント55号の世界は笑う」に当てた奇策。

「この一時間番組を毎週生放送でやって欲しいんだ。それもスタジオじゃ面白くない。公会堂かどこか借りて公開生放送だ」(p.94)

 

小さい頃、この番組を見ていましたが、生放送だったとは知りませんでした。

水曜・木曜に会議で次週分のネタづくり、金曜は翌日土曜の本番に向けた立ち稽古。土曜日は本番生放送。

これを16年間・全803回、ほぼ休みなく続けたって、もう驚愕。

入念な台本と、立ち稽古と、当日の即興力と。

優れているか、上手いか、とかいう話ではなく、つべこべ言わず、目の前の本番を必死でやって行くことそのものが修行であり、愛され、結果を出して行くことにつながっていくのだということを最もよく示してくれる例だと思いました。

 

そんな「全員集合」も、ぶっちぎりだったフジテレビの裏番組のコント55号を抜き去り、視聴率50%前後という驚異的な数字を上げた後は、またフジテレビの「オレたちひょうきん族」に抜かれていく。50%という数字にも、栄枯盛衰にも、当時のテレビ業界を感じます。

 

ドリフの笑いも、この働き方も、今の時代にはもう難しいかもしれない。

けれども、その時代を全力で生きた人への敬意が湧いてくる読書でした。

 

 

この記事は、こんな人が書いています。 

coaching.cocomichi.club

 

お気に召す記事がありましたら、ぜひシェア頂ければ嬉しいです。また、もしこのブログを読んで、ここで紹介されている本を購入しようと思われた際は、ここみち書店(神保町PASSAGEbis!内)、ここみち書店bigarré(神保町PASSAGE SOLIDA内)もしくは、このブログ内のamazonへのリンクを経由して購入頂けると幸いです。私にとって皆様が本に出会うことのお役に立ったことを知る機会となり、励みになります。