養老さんの壁シリーズ。
「死の壁」(養老孟司 著、新潮新書、2004年4月初版)
「バカの壁」よりもこちらの方が好きでした。壁シリーズとの出会いがこちらが先だったせいかもしれません。
死体を人として扱う、という養老さんの考えに触れて、死体をどういうものとして見るかなんて考えたことがなかったな、医学に携わる方がこういう考え方でいてくれるのは嬉しいなと思いました。
解剖学という極めて科学的・医学的知識と経験を持つと同時に、歴史や文化、暗黙知などへの理解、大いなるものへの敬意、宗教への理解など、目に見えないものも信じていらっしゃる。
この両方を持ち合わせていてバランスを取れる人、かつそれを言葉で表現できる方というのは、現代の日本ではとても稀有だと思いますし、築かれた地位や立場からそれを発信してくださるのは、ありがたいことだなと思います。表現する勇気も含めて、誰もがこれをできるわけではないと思うので。
「バカの壁」と同様、私たちが日常で当然と思っていることの中に抜け落ちていることを、気づかせてもらえる本です。
養老さんのお話は、読み進めるうちに展開していくので、どこかだけを切り取るというよりも、通読されることをお勧めします。
以下は、本当にごく一部のエッセンスです。
「不死の病」
人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。(中略)人間が死ぬということが知識としてはわかっていても、実際にはわかっていないのです。(p.26)
こう言われて、どう感じるでしょうか。反論したくなるでしょうか。
いろんな角度からこのことについて書いてくださっています。
一つには、死が私たちの生活からどんどん排除されていること。
核家族化が進み、最期は病院か介護施設で迎える人が多い中、人の生命がどのように終わり、肉体や意識がどのように変化していくのか、それを間近で見た経験のある人は多くないと思います。
いつかは死ぬとはわかってはいるけど、実感がない。
また、自分自身を「情報」として捉えるようになったことが、死に向かっていくことを受け止められない理由だというのが、なるほど、と思いました。
都市化が進み、身体よりも脳で生きることが増え、人は物理的にも常に変わり続けている存在なのにも関わらず、「自分はこういう人間」という「情報」を持ち続ける。昨日と同じ自分が、今日も明日も明後日も、1年後も10年後もいると、無意識に思っている。老けた自分や身体の動きが鈍る自分が受け入れられないのも、そういうことかな、と。
さらにそこから発展して「俺は俺」「私は私」という思い込みの弊害がとても興味深かったので、引用しておきます。
「俺は俺」「私は私」ということについて補足しておきましょう。この思い込みを打ち破ることはかなり難しい。常に変わらない自分が、死ぬまで一貫して存在している、という思い込みが多くの日本人の前提になっています。(中略)
おそらくこの思い込みというか論理は、なかなか破られにくいものだからこそ、一般化したのでしょう。破られにくいのは、たとえ他人から指摘されても「変わった部分は本当の自分ではない」という言い訳が常に成り立つからです。
例えば恋愛の末、結婚をして夫婦になった。しかし十年経ってみて相手のことが嫌いになった。別に珍しいことではありません。
この時に、「私は私」という意識が前提になっているとどう思うか。「あのとき、あの人を好きだと思っていた自分は本当の自分ではなかった」という論理が展開できるわけです。(中略)
この論理はいくらでも自由に使えます。個人に限らず、たとえば戦争中と戦後の日本の変化についても使えるわけです。
「あの時は血迷って戦争をしかけたけれども、あれは本当の私たちではないのです。今の平和な私こそが本当の私です」ということです。どんなに自分が変わろうと、常に今現在の自分を「本当の自分」だとしておく。「変わった部分は自分じゃない」とする。(中略)
もちろん、日常生活のなかで「あの時は考えが足りなかった」と反省をするということは悪いことではありません。(中略)
ここで問題にしているのはそういうことではなくて、「あの時の自分は、本当の自分ではなかった。本当の自分を見失っていた」という理屈です。
そんなことはあり得ないのです。今、そこにいるお前はお前だろう、それ以外のお前なんてどこにいるんだ、ということなのです。「自分探し」などと言いますが、「本当の自分」を見つけるのは実に簡単です。
今そこにいるのです。(p.30-32)
日本のこの世はメンバーズクラブ
もう一つ、腹落ちしたのが「この世はメンバーズクラブ」という部分。
少し前段から紹介する必要があります。
(前略)死体についての考え方、捉え方には当然ながら社会的な環境が影響します。たとえ死んでも人間は人間のはずですが、日本では、「死体は人間じゃない」という考え方が文化になっています。「死んだら最後、人ではない」というのが世間のルールになっています。
そんなことはない、とおっしゃるのならば、葬儀のあとの「清め塩」を思い出していただきたい。
大抵の人は、受付でもらった塩を自宅に入る前に身体にふりかけるでしょう。ではなぜ、身体を清めなくてはいけないのか。それは死んだら最後、相手に対して手のひらを返している証拠ではないでしょうか。相手を「穢れ」として見ているからこそ、清めなくてはいけないのです。
(中略)
これは戒名でもまったく同じことが言えます。死んだ途端に名前が変わる。これも「死んだ奴は我々の仲間ではない」というルールがあるからです。
世間というものを一つの円(サークル)で表現するとすれば、死んだことによってそこから外されてしまう。日本人の「ヒト」の定義は、この円、すなわち世間に属している人のことです。そして死んだ途端に、「ヒト」はこの円から出されてしまう。(p.87-89)
本書では、この考え方が定着したのは江戸時代から、と書いていらっしゃいます。「非人」が制度として成立したのが江戸時代なので。士農工商までが人で、「非人」とは人にあらず、ということ。もちろん物理的には「人」なのだけれども、当時は世間を構成する人ではないとして非人と表現された。「人非人」の説明から考えると分かりやすいです。
「人非人」という表現があります。「人にして人に非ず」というのは、論理的にはおかしな話です。人であることは認めつつも人ではないと言っているのですから。(中略)
上の「人」は自然人を示していて、下の「人」は世間の人を示しているのです。「人非人」は自然界の人間(現代的に言えば生物学的なヒト)ではあるが、世間の人ではないという意味になります。 (p.90)
そして、ここからがメンバーズクラブの話。
ともかく、こういうふうにして江戸時代にできた世間という円があります。それは時代や国によって変わるものですが、現在の日本の世間の原型は、ここにあるのです。この円は、今ふうに言えば、一種のメンバーズクラブのようなものだと考えるとわかりやすいかもしれません。
死ぬということは、そのメンバーではなくなるということなのです。強制的に脱会させられるわけです。(中略)
武士の切腹というのも、メンバーズクラブからの脱会方法の一つです。(中略)
武士の一存で決めることは「腹を切って死ぬ」という行為そのものではなくて、それによってメンバーズクラブから抜けるということなのです。逆にいえば、そこまでしないと脱会はできない。死んだら抜けられるということは、裏を返せば、死ななくては抜けられないということです。(中略)
切腹というのは、こういうメンバーズクラブの会員資格を武士の一存で消滅させるということです。そうまでして脱会する恩典は何かといえば、それまでのクラブ内での義理をチャラにしてあげましょうということです。
「あいつが腹を切ってくれれば丸く収まるのに」というのは、それによって彼に絡んださまざまな義理や負債をチャラに出来るということです。そういう思惑が周囲にあって、それで圧力をギュウギュウかけて誰かに腹を切らせるのが「詰め腹」という奴です。これは武士の一存ではないから恥になる。
こんなふうに日本の世間を考えると、いろいろなことがわかる。(後略)(p.94-97)
この後、見えてくる「いろいろなこと」の例として、日本で行われてきた「間引き」の話などが続きます。メンバーシップだから、入会審査も厳しいのだという一例として。
この部分を読んで、私が日本社会でずっと理解できなかったことがようやくわかった気がします。
それは、なぜ日本のニュースやワイドショーでは、その道の専門家でもない著名人や芸能人が出てきてあーだこーだコメントをするのか、なんで視聴者もそれを聞くのか、ということ。
なるほど、視聴者は、専門的な話を視聴者が聞きたがっているわけではないんだな、(語弊を恐れずに言えば)正しく理解したいわけでもないんだな、と、腹落ちしました。
聞きたいのは、この「日本社会」というメンバーズクラブにこういう人(例えば、不倫した人)がいても良いのか、どういう態度なら許されるのか、ということなんだな、と。
著名人や芸能人は、クラブを代表するメンバーとして話している。
すると、視聴者は自分の声が代弁されたような気がして満足する。
逆に、専門家が詳しく説明したとしても、やっぱりメンバーズクラブの不文律でそれはアリなのかどうなのか、という議論なくしてはスッキリしないのだろうと思います。
このメンバーズクラブの考え方は、会社でも学校でも起きているような気がします。
学校や職場でつらい経験をした人が自ら命を断つ話を聞くと、何も知らない第三者は「何も死ななくても...」と思いますが、当人からすれば、もう世間から離れたいということなのだろうと思います。
脱会して行く先が、あの世しかなかった時代も確かにあったと思います。
今はきっともっと選択肢がある時代になったと思いたいです。
他県にも行けるし、海外も行けるし、最近日本でも広がりつつあるサードプレイスもある。
ひとつのクラブしか存在しない社会はとても生きづらい。
本書でも少し触れられていますが、このメンバーズクラブに入れる・入れないは、「仲間として認めるか」ということで、「差別」とはまた違う感覚なのだろうと思います。
例えば、外国の人を、肌の色や言葉の違いで「差別」しているつもりは毛頭ないけれども、メンバーズクラブの一員とは見ていないので、外国の人からしてみると、いつまでも疎外感があったりする。
「差別しないで」と言っても、「差別はしていないよ」と噛み合わない議論になるのかもしれません。
法律上で日本人と同等の権利が保証されていき、制度上の差別はなくなったとしても、「メンバーズクラブ」のマインドだと、何か扱いが違う...という感覚は残り続けるのかもしれません。
これは日本だけに限る話ではないですけれども。米国やカナダなどとは明らかに感覚的に異なるところだろうと思います。
死の話は、医学だけではなく、文化や慣習、宗教などの話と切っても切り離せない。
逆に、死についてどう捉えているのかを知るのは、国や地域の文化を知る上で重要な手掛かりになるのかもしれません。
他にも、本書では、そもそも「死」とはどこから死なのか、一人称・二人称・三人称の死など、興味深い話が沢山です。おすすめです。
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