ここみち読書録

プロコーチ・けいこの、心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

人新世の「資本論」

新書大賞2021ということで、だいぶ前に、いつも行く本屋さんで注目棚に置いてあったので買ってありました。ようやく読了。

人新世の「資本論」」(斎藤幸平 著、2020年9月初版、集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

 

私は経済学をがっつり勉強した身ではないので、著者の主張の妥当性などについて論じることはできません。

あくまで一読者として、一市民として感じたことをメモしておきたいと思います。

 

人新世(ひとしんせい)とは

「人新世(Anthropocene)」とは、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが名付けたもので、「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」という意味だそうです。
人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、地質学的にみて、地球は新たな年代に突入した」と。(p.4)

この単語自体は耳慣れないけれども、定義まで聞くと、なんか、わかる気がする。
石油も掘りまくって、海の底からも地中のわずかな隙間からもガスを吸い上げ、木々を切り倒し、一面を田畑やプランテーションにしてしまい、あるいはコンクリートで埋め固め、その上に天までも届きそうなビルをいくつも立てる。
確かに、人間の痕跡が、地球の表面を覆い尽くしている。

それが気候変動という、このままだと人間自身も住めなくなっちゃうよ?、というアラートをもらって、これまで環境にそこまで興味がなかった人々も含め、世界全体の関心が向き始めたところ。

といっても、エコバックとか、SDGsとか、電気自動車とか。
それ、本当に解決になってる?というのは、誰もが一度は頭をよぎるところ。
とはいえ、抜本的なことに自らはなかなか乗り出さない。
何となくの疑問を、それ以上調べるでもなく、考えることを放棄する。見て見ないふり。知らないふり。

本書は、そういう欺瞞を鋭くついて、
本気で気候変動を止めよう、
そのために資本主義を脱却し、<コモン>を再建し、「ラディカルな潤沢さ」を実現していこう、と平等で持続可能な「脱成長」を呼びかける本です。

それは
「無限の経済成長を目指す資本主義に、今、ここで本気で対峙しなくてはならない。私たちの手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わる。」(p.118)
このままでは「資本主義よりも前に地球がなくなる」(p.51)
という危機感から。

 

書かれている現状は、見事に、現代人の欺瞞をあぶり出している

第一章「気候変動と帝国的生活様式」では、私たち、いわゆる先進国の市民の生活がどれだけグローバル・サウス(かつての南北格差の南を指すときの概念が更に広がったもの)の犠牲の上に成り立っているかということが説かれます。

グローバル・ノースにいる私たちの生活は、大量生産・大量消費の「帝国的生活様式(imperiale Lebensweise)」。先進国に暮らす限り、所得が必ずしも高くはない層を含めてもそうだと思います。

気候変動問題やグローバル・サウスで起きる痛ましい事故に、私たちも決して他人事でなく、というか、私たちの生活自体が問題の根源なのだということが、逃げ場なく語られます。

問題の根源ではなかったとしても、このグローバル経済の現在の仕組みに「加担」はしている。(p.27)

エコバックにしたり、マイボトルにしたり、ハイブリッドカーに乗ることでは何も解決しないどころか、むしろ有害ですらある。(p.3)

そのことに気づくだけでも大きな違いがあると思います。

 

第二章は、現在、気候変動を防ぐために!と大きく掲げながら提唱される各種の策の限界や欺瞞をあぶり出しています。

グリーン・ニューディール政策、SDGs、プラネタリー・バウンダリーの設定、デカップリング、電気自動車やIPCCなどの新技術、脱物質化・・・。

いろいろ論じるけど、いろいろ提唱して始めるけど、
それってそもそも無理じゃない?
効果は出ていなくてむしろ逆に行っちゃってない?
そんなの「知的お遊び」(p.93)に過ぎないんじゃない?
とデータなどをもとに矛盾を指摘しています。

そして、そうこうしている間に、資本主義による自然からの搾取・掠奪が止まらない。

 

第一章・第二章は、私も、以前の仕事の関係でこれまでいろんな国を訪問し、上流から下流までいろんな業界を知り、多方面からの情報を得て、世の中の経済の流れを学び感じていたことだったので、それを見事に言語化してもらったような感覚になりました。

この2つの章だけでも、本書の価値は十分にあると思いました。

 

脱成長、本当の意味のコミュニズムの提案

第三章から著者の提案に入ります。

結局のところ、資本主義は、その性質から、経済成長を求める。
経済成長をしながら、二酸化炭素排出量を減らすことはできない。
だから、経済成長を目指すのをやめよう。
「脱成長」に転換しよう
というのが本書の一貫した軸。

なお、脱成長は、「景気後退」や「長期停滞」の意味ではなく、
資源消費量そのものを抜本的に減らす「経済のスケールダウンとスローダウン」、
「経済成長をしない循環型の定常経済」、
破局につながる経済成長ではなく、平等と持続可能性を目指すもの、
という意味で使われています。(p.88、95、134、193)

成長から脱するのだから、資本主義も手放す必要が出てくる。
資本主義は、経済成長を自ずと求めてしまうシステムだから。

そのためには、晩年のマルクスの考え方に学ぶことができる。
それは、マルクスの言うコミュニズムの再解釈であり、<コモン>と「ラディカルな潤沢さ」

私はマルクスの理論に詳しくないのですが、これまで研究されていたマルクスの考え方は経済成長や、一定水準までは資本主義を前提としていた、と。
ただ、それは、マルクス自身も理論が完成していく途中の段階であったと。
研究が進むにつれ、晩年のマルクスの思想はもっと進化し、新しい境地にたどり着いているのだそうです。

本来意図されたコミュニズムとは、旧ソ連のような一党独裁と国営化体制を指すものではなく、生産者たちが生産手段を<コモン>として、共同で管理・運営する社会のこと
さらには、生産手段だけではなく、地球をも<コモン>(common)として管理する社会のこと。(p.142)

水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指し(p.141)、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった<コモン>を意識的に再建する試みのこと。(p.144)

共産主義・社会主義という表現は実はほとんど使われてない。(p.145)

 

私なりの解釈で言えば、
有形無形の資産が、
誰か、あるいは、ある企業の所有物となるのが資本主義、
それが国家の所有物になるのが社会主義・共産主義、
コミュニズムで目指すのは、それは誰のものでもなく、<コモン>。みんなのもの。

誰かが独り占めしたり、コントロールすることがなくなれば、そこには希少性もなくなる。

囲い込みがなくなれば、実は、あらゆるものが、人類が生きていくのには十分に潤沢にある、という状態。

というか、もともとは、水も土地も食料も潤沢だった

そこに囲い込みが始まったことにより、これまで何の問題もなくそれを使うことができていた人たちが使えなくなってしまった。潤沢ではなくなってしまった。

これをもう一度、ラディカルに(=過激に、大胆に)解放していけば、本来は潤沢のはず。

なお、本書では、この希少性を生み出したのは資本主義となっていますが、
私の私見では、この囲い込みは資本主義の始まる以前から、農耕が始まって貯蓄ができるようになったところから始まっていると思います。(農耕自体も資本主義に含まれるのかもしれませんが。)

そして、この脱成長をしていくために、第七章で、
①(価値経済から)使用価値経済への転換
②労働時間の短縮
③画一的な分業の廃止
④生産過程の民主化
⑤エッセンシャル・ワークの重視
という提案などへと話は進んでいきます。

 

結局、鍵はやっぱりここではないか?

第四章〜第六章は、マルクスの理論に対して想定される反論に対する反論が展開される感じがあり、もともとマルクス主義に対してそこまでの知見も偏見もない私には、ちょっとお腹いっぱい、という感じになりました。
同じことが行きつ戻りつ何度も繰り返される感じもあり、もしそう感じたら、飛ばしながら読み進めてもいいかもしれないです。(また後でまとめや復唱が登場するので)

そしてなんとかたどり着いた最後、私が一番腹落ちする一文がありました。

そして、このプロジェクト(注:資本主義の超克、民主主義の刷新、社会の脱炭素化という、三位一体のプロジェクト)の基礎となるのが、信頼と相互扶助である。(p.357)


そう。信頼と相互扶助

結局そこに行き着くのではないか、と。

本書では、この部分は2ページしか書かれていなかったけれども、こここそが大事なんじゃないか?、と、ひとり勝手に頭が回転しておりました。

生産を<コモン>化したり、脱成長すれば、自動的に信頼や相互扶助が起きるわけではない

むしろ、制度だけを整えても、信頼と相互扶助がなければ、きっと機能不全になるか、悪くすると資本主義以上に崩壊するかもしれない。

資本主義の中で生きている現在であっても、信頼と相互扶助の精神があれば、そんなに苦しまずに生きていける、というのも、私自身が最近感じているところです。

さらに言えば、本書で強調される民主主義も、国民一人一人の意識が進化していなければ、惨憺たる結果になることも容易に想像できる。

自らが社会の一員でこの社会を創り出している一員であるという自覚を持ち、主体的に意識的に選択する市民がいてこそ、民主主義は機能する。

「○○主義」というものを手放して、
人々がシンプルに信頼と相互扶助で生きていくことだけを選んだ時、
そして、自ら主体的に選択して生きていくという行動を取り始めた時、
そこに生まれる経済の仕組みはどんなものなのかな、そこに名前をつけるなら何主義というのかな、などと、そんな方向に関心が向きました。

 

そして、私自身は、大きな枠組みからというよりも、その一人ひとりの覚醒のために、コーチングをやっているんだな、とも思いました。

私自身は、「個々人のリーダーシップが開花すると、エコで平和で面白い社会が実現する」と本気で信じて、コーチングを提供しています。

人が心から満たされて生きるようになると、自分が充実して生きるためにそれほど多くの物質を必要としないことにも気づき始めます。なので、気候変動を食い止めることに、微力ながら多少なりとも貢献できているだろうとも思っています。

そういう意味では、フィールドは違うけれども、著者の同志かもしれません。

 

 

最後に、なんで、こう行きつ戻りつ同じことを何度も繰り返すようなこういう書き方になるのかな、と思いながら読んでいましたが、ここも最後にきて、そうだねぇ、と思いました。

「左派の常識からすれば、マルクスは脱成長など唱えていないということになっている。右派は、ソ連の失敗を懲りずに繰り返すのか、と嘲笑するだろう。さらに、「脱成長」という言葉への反感も、リベラルの間で非常に根強い。」(p.359)

著者は「きっとこの論は受け入れられないだろう」という気持ちで臨戦体制で筆を取ったのだろうな、と。それもわかるな、だから、それに備える構成や文章になっているのだな、と。

一方、もしかしたら、最近の若い世代の人たちは、もっといろんな考え方に柔軟かもしれません。

「脱成長?うん、そうだよね。」という反応かもしれず、そうだとすると、もっと短く端的にこの主張を言えるのかもしれないな、なんていうことも思いながら読みました。

 

それにしても、本を出すって勇気がいるだろうなぁと思います。
人は、いろんな感想を持つものだから。
それに対して、このネット社会で人がどう反応してくるかも、本当にいろいろありうることだから。
自分が大事にしている主義に関することであればなおのこと。
その勇気と思いとエネルギーにリスペクト。

私は私の持ち場で頑張りたいと思います。

いろいろと考えさせられる本でした。

 


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