もらった本です。
最近、自分の普段の趣味からは外れたところの本も読んでみたりしています。
読んでみたら、面白い。時々、声に出して笑ってしまう。
そして、日本の今に、愕然とする。
ワーク・シフトを読んだ後に読むと、その世界観の落差に、更に愕然とする。
「ア・ピース・オブ・警句 5年間の「空気の研究」2015-2019」(小田嶋隆氏 著、日経BP、2020年3月初版)
タイトルがいいですね。
大変ありがたいことに、今、私の仕事仲間や友人たちを見渡せば、周りにいるのは、
愛に溢れ、
喜びから生き、
感謝を表現することを躊躇わず、
自分の不完全さを認めつつ、けれども卑屈になることもなく、成長することを楽しみ、
自分は全体の一部であることを知りつつ、
同時に、自分という人生を、自分の心に従って、存分に生きている・生きようとしている、
という方々ばかりです。
必ずしもそういう時ばかりではなくても、そういう世界の尊さを知っている。
テレビを持っていないのでワイドショー的な情報が入ってくることもなく、
電車に乗らなくなったので、週刊誌の中吊りを読むこともなくなり、
Facebookので上記のような世界観が流れてくる日々。
すっかりそういう環境に慣れてしまうと、
世界はもうそういうところになってきたな、と思い込んでしまうのですが、
「隣の人のスマホの中は別世界」、というのは確か、ホリエモンが「スマホ人生戦略 お金・教養・フォロワー35の行動スキル 」の中で言っていたこと。
そうでした、日本って、こういうところでもありました。
日本人って、こういうところありました。
そういう、目を背けたいところを、たいへん鋭い眼と文章で、直視させられるような感じでした。
前置きが長くなりましたが、本書の内容は、日経ビジネスオンライン、日経ビジネス電子版に週刊で掲載されている同タイトルのコラムの中から2015年〜2019年に書かれたものを厳選して集成したもの。
本書のテーマは、東京オリンピック関連のゴタゴタ(予算オーバー問題、暑さ対策問題など)と、安倍政権の体質(森友学園、加計学園、桜を見る会など)について、が大半。
そこに現れる今の政治の在り方や日本の国民性について。
帯の言葉を借りれば、「反骨のコラム二スト」が述べる「過剰忖度社会への小さな違和感」。
扱っている事象は当然過去のことなのだけど、指摘されていることはコロナ禍の今もまったく同じです。
例えば2015年11月にパリで起きたテロを受けて書かれた警句は、今の私たちにそのまま刺さる。
アクシデントは、いずれ必ず起こる。
天災なのか、事故なのか、軍事的な衝突なのか、越境事案なのか、テロなのかは、まだわからない。
とにかく、そういう人心を一変させるような非常事態がこの国で起こった時、世論は、間違いなく沸騰する。必ずそうなる。テンパった顔のニュースキャスターが画面を指差して裏返った声で読み上げる原稿が、われわれを走り回らせることになるに違いないのだ。
(中略)
「な、落ち着けよ」
と、その言葉を言う人間的は、おそらく、「非常時」が来たら、血祭りにあげられる。
だから、非常時が来る前に、前もって、
「なあ、兄弟、熱くなるなよ」
と言う意味のテキストを書き残しておく所存なわけです。(p.77-78)
そう、落ち着こう。
緊急事態宣言が出る出ないのときに、私も「自由と責任」という記事をブログに書きましたけれども、こちらの警句にもとても共感します。
私たちは決断が嫌いだ。
もちろん、決断の好きな人もいるだろうし、自己決定こそが人生の全てだと思っている人もいるはずだ。
でも、多数派の日本人は決断を嫌っている。
(中略)
私が言いたいのは、われわれが「自己決定権」を、そんなにありがたく思っていない国民だということだ。(p.71-73)
タイトルに使われている「警句」。
最初は、国政や都政を担う政治家たちへの警句かと思って読んでいました。
読んでいるうちに、そうじゃないな、これは、私たち市民への警句だな、と思い直しました。
例えば、
彼ら(ここでは安倍政権)が「言葉を大切にしない」こと(p.243)
例えば、
「国会答弁の中でこの1年繰り返されているあまりにも不毛な言葉のやりとり」(p.274)、
例えば、
「時間切れが近づいて、すべての決断を、議論なしで、説明抜きで、一瀉千里の勢いで片付けなければならなくタイミング」を待って、ドサクサの中で事後的に決まる予算増額(国民負担増額)(p.203、都と組織委員会のオリンピック経費の協議について)
例えば、
「首相ご自身の公私混同案件を隠蔽するために、結果として、およそ空恐ろしい掟破りの反則を次々と犯してきたということ」(p.230)
言い換えるなら、
「安倍首相ならびに政府が、自らの過ちを認めないために行政を歪め、事実を隠蔽し、現実に直面しないために国会を歪めていること」(p.233)。
こういうことについて、私たち国民が
疑問視しないでいると、
追求しないでいると、
忘れてしまっていると、
さらには、
「政治向きの発言や議論を「退屈」と見なす態度こそが「クール」な現代人の証」などと思っていると(p.254)、
そんな態度でいると、
本当に、日本が、一部の人たちの都合だけで動かされるような国になっていってしまうよ、と。
しっかり見てなさいよ、
民主主義は自分たちで守るものですよ、と。
日本人のこんな国民性は、政治や行政を司る方々にとっては、大変都合が良い可能性がある。
われわれは、「起こってしまったこと」には、反対しない傾向を備えた国民だ。
それ以上に、「いまこうしてこうあること」には、ほとんどまったく疑問を持たない。
なんというのか、私たちは、現状肯定的な国民なのだ。(p.65)
このことは、われわれが「ひとたび決定したこと」を、あらためて議論の場に持ち出したり、いつまでもいじくりまわしたり、もう一度振り返って考え直したりすることを嫌がる国民だということでもある。(p.101)
国民の多数派が強いリーダーを求めているのだとしたら、それは多くの国民が、自分たちが自分たちのリーダーである民主主義の設定の面倒くささを拒否している、ということだ。(p.131)
何かについての賛否は、それが決まる前までは、そのイシューそのものへの賛否として問われている。が、ひとたび決定が下ってしまうと、それは「みんなで決めたこと」に変質し、質問自体も、その「みんなで決めたことに乗るか乗らないか」を問う脅迫に似たものに変質してしまう。そして、当然のことながら、「決まったこと」への賛否において問われているのは、実は、特定の問題についての支持や不支持ではない。
決まったことへの態度によって、われわれは、「日本人であること」の資格を問われ、「会社への忠誠心」を問われ、「常識」そのものを問われている。ということは、集団の中で生きている人間に、逃げ場は無いわけだ。(p.67-68)
ボーッと生きてんじゃねえぞ!、とチコちゃんに怒られてしまいそう。
下手をすると、「われわれはナメられているのだろうか」(p.202)と思うような事態になってしまいそう。
いや、著者によれば、既に「さよう、われわれはナメられている」(同)。
読み終わった後に、飛び込んできたのは、首相が歴代最長在任期間を更新した直後に、体調不良を理由に辞任するというニュース。
なんともなぁ。
そしていろんなことが、このまま闇に葬られていく。
なんともなぁ。
このままむにゃむにゃと自分の記憶からも消えていく前に、こんな本で第3次・第4次安倍政権を振り返っても良いかもしれません。
少なくとも、当時何が起きていたのか、ということを、庶民にもわかりやすく残す文書に、本書はなっていると思います。
それにしても、政治が絡むことや、社会の風潮に物申す的なことを、こういう風に自分の意見を堂々と述べることができる方々は、それだけで尊敬します。
あと、 絵が素晴らしくお上手!
上記の流れとはちょっと外れるのですが、「会議」についての表現が、素晴らしく実態を表していると感じたので、備忘的にメモ。
会議は不思議だ。
この国では、会議は、むしろ「活発な論議」を封殺するために開かれる。
論議は、会議が開かれる前の根回しの過程で、様々な駆け引きや、恫喝や、多数派工作のおまけとして行われるに過ぎない。
会議の本番では、全会一致が重んじられる。
議決が全会一致でなくても、決定事項は、会議に参加した全員の共通の課題になる。
であるからして、決まったことに反対する人間は、イシューに背を向けているのではなくて、組織そのものに叛旗を掲げる人間とみなされることになる。これでは、誰も反対できる道理がない。というよりも、わが国のように集団主義が力を持っている社会において、会議は議決に参加させることを通じて反対派を黙らせるためのツールとして開催される、一種の責任分散装置であり沈黙強制過程なのである。(p.68-69)
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読みたくなる本:
こういう映画もあるのですね。