読書が好きですというのが憚られるほど、実は、著名な本はあまり読んでいません。
こちらもその1冊。
名前だけは知っているものの、実は読んだことがなく。
いつかは読むのだろうなぁと思いながら買ってもいませんでしたが、
今年、この本の読書会にお誘いを頂き、その機会に読んでみました。
「かもめのジョナサン 完成版」(リチャード・バック氏 著、五木寛之氏 創訳、新潮文庫、2015年7月初版)
でもって、こういうよく知られた本について書くのは毎度勇気がいります。
本が届いて、え、こんなに薄いの?とちょっとびっくり。
そして、読んでみて、不思議な本。
米国での初版は1970年ですが、その時は、Part One から Part Threeまでだったとのことです。
そこまでの話は、とてもシンプルに言えば「飛ぶことの歓び」を知ったかもめのジョナサンが自己実現していく話。
飛ぶことの歓びに身を投じ、生きることに意味を見出すジョナサンは、
ただ生きるために食べ、食べるために飛ぶしかしないほとんどのかもめの群衆には理解されないけれども、一部の同志は師事しようとついてくる。
このPart Three までは、いい言葉が散りばめられているなぁ、わかるなぁと思うところも多々ありましたが、
正直なところ、私の未熟な読解力では、そこまで強烈に心が動かされるという感じではなかったです。
末尾に、1974年当時の創訳者・五木寛之さんのPart Threeまでのあとがきが掲載されているのですが、「違和感」と表現されるその内容にとても共感しました。
そして、2014年に出版されたこの「完成版」。
Part Four が追加されています。
現代に新たに書き加えられたものではなく、もともとPart Fourまであったもので、1970年当時はここを落として出版した、ということだそうです。
このPart Fourが素晴らしく良かったです。ものすごく腹落ち。
著者はきっと、最初からここを書きたかったんではないか、と思いました。
群衆というのは不思議なもので、天才的な人物が現れたり、奇跡的なことが起こると、自分とは別物と認識する。
それはその人が特別なのだから、と直接関わろうとも教わろうともしない。
あるいは、否定し、下手をすれば破壊しようとする。
なのに、ひとたび、例えばその人物が亡くなったりすると、突如、賛美の声を送り、ものすごい尊い扱いをする。
そして、その、もう存在していない人の言葉や逸話から、何か尊いものを得ようとする。
その言動を表面上真似たり、その人を讃えていれば、あたかも自分が学び、自分の人格が成長していくかのような錯覚をして。
けれども、こういう神格化が起きるところに、本当の学びはない。
なぜって、本当の学びは、自分の体験を通してしか起きないから。
ブッダも、悟りまでの道のりを教えてあげることはできても、結局は自分で歩かなければ悟りに至ることはない、と言っています。(と、ヴィパッサナー瞑想で習いました。)
ブッダの言葉についてどの解釈が正しくて、どれが正しくないか、とか、そういうことよりも、自ら体験することが大事。
けれども、現実では、あらゆる世界で、あらゆるレベルで、神格化が起きている。
Part Fourは現代でも起きているそのことを、かもめのジョナサンの世界観のまま、素晴らしい表現で描写しています。
尊敬することと、盲目的な信者になることは違う。
教わったことを、あたかも自分が創り出したかのように言うのも違う。
先人の知恵をありがたく頂きつつ、
自分なりの体験を通して、その学びを自分のものとして、
そして先人にも敬意を持ち続ける。
その知恵の一部に自分もなっていく。
この間合い。
読書録を書きながら、そんなことも思いました。
もし過去にPart Threeまで読んでピンと来なかった方には、完成版、面白いかもしれません。
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