初版が出た1995年から、ずっと本棚に置かれっぱなしの本。
多分親が買ってきてくれたのだと思います。
当時、少し読みかけたけれども、あまり入り込めずにそのまま本棚入り。
8月末、コロナに罹って10日間の療養となった際、27年ぶりに手が伸びました。
670ページの大作です。
読み始めたら、これが、相当面白い。
久しぶりに没頭できる読書でした。
私の中では、今年一番面白かった本になるかもしれません。
そして、「大人になって読み直したい本」カテゴリに1冊追加。
「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」(ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子 訳、須田朗 監修、1995年6月初版、NHK出版)
ストーリーは、ソフィーという少女が、哲学の先生から不思議な手紙をもらうところから始まります。
先生とのやりとりをしながら、哲学の歴史の世界に誘われます。
わかりやすく言ってしまうと「子ども向けの哲学の本」となるのですが、中身は相当深く、濃いです。
恥ずかしながら、ソクラテスとか、プラトンとか、サルトルとか、実際は名前しか知らず、どういうことを唱えていた人なのかなどはほとんどわかっていませんでしたが、
この本を読むことで、西洋の哲学の歴史がどのように進んできたのかが、本当によくわかりました。
(といっても、今すらすら言えるわけではないので、この本はずっとバイブルとして手元に置くことになりそうです。)
哲学というと小難しい言葉遊びにもなってしまいそうなところを、子どもにでもわかるように具体的な例を使いながら書いてあるので、本当にすっと入ってきます。
デモクリトス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ヘレニズム文化、中世、ルネサンス、バロック、デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、バークリ、啓蒙主義、カント、ロマン主義、ヘーゲル、キルケゴール、マルクス、ダーウィン、フロイト・・・。
歴史だけではなく、この先のこと、宇宙のことにまで話が続いているのが、とてもいいなと思いました。
そして、単なるお勉強だけではなく、この本自体がミステリーになっている。
途中から、え?今、私は現実の世界にいるのだろうか???と自分自身の実存すらも疑いたくなるような感覚に陥ります。
コロナに罹って現実社会と切り離されていたことも、その感覚に拍車をかけたかもしれません。
映画のマトリックスを久しぶりに見たくなりました。
中身を書いてしまうと面白味がなくなってしまうので、ぜひご自分でこの不思議な世界を経験してみてほしいと思います。
本の力、読書のダイナミックさを体験させてくれる本でもあります。
著者はもちろん、この膨大かつ難解になりかねないものを、こんなにも読みやすく訳された訳者の方と編集者の方にリスペクトです。こういう方々がいてくださるおかげで、私たちも学ぶことができます。
哲学の歴史を知ることは、人類の歴史を知ることでもあるのだな、と今回読んで思いました。
どの哲学者が絶対的に正しくて、絶対的に間違っているということはなく、
ある考えに振れれば、次の時代はもう片方の極に振れ、
皆、あの手この手で、ヒトはどこからきたのか、自分とは誰なのか、この自然はどこからきたのか、ということを問うてきた。
これは、きっと誰もが一度は考えたことのある話。
多くの人は、いつしかその問いを手放すけれど、その問いに真正面から向き合い続けるのが哲学者。
物理学や自然科学、宗教の領域とも重なるところがありますし、
別に、哲学やその他の学問を研究することを職業にしていなくても、この問いを持ち続ける人は、誰でも哲学者なのだと思います。
いい哲学者になるためにたった一つ必要なのは、驚くという才能だ。(p.27)
哲学者の仕事は、人びとが存在を新しい視点から見る手助けをすることだ(p.314)
きみと赤ん坊の二人のうち、赤ん坊のほうが心が開かれている。赤ん坊は偉大な哲学者だ、というのはそこなんだよ。赤ん坊には先入観がない。そしてそれが、ねえソフィー、哲学者のいちばんいいところなんだ。赤ん坊は世界をあるがままに受けとめる。経験に尾ひれをつけたりしない。(p.349)
(ソフィーは)戸棚のいちばん上の棚は、哲学講座専用にした。そこは部屋のなかでたった一カ所、ソフィーにはまだよくわからないものをしまっておくところになった。(p.156)
そしてまた、哲学の問いは終わることも完成することもありません。
「結局、哲学の問いとは、それぞれの世代が、それぞれの個人が、何度も何度も新しく立てなければならないんだよ」(p.588)
コーチングは、時に哲学的でもあります。
私たちが実践しているコーアクティブは、とりわけその性格が強いのかもしれません。
コーチングに出会う前には興味が湧かなかった本書。
手放さずにいてよかった、改めて出会えてよかった。
本にはやはり読み時があるな、と思います。
今ピンと来た方は、ぜひ、今、どうぞ。
今ピンと来ない方は、身体のどこかで、本書の存在を覚えておかれること、おすすめです。
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今は新装版も出ているようです。
以下は私の備忘のため。
いろんな哲学者の話を読んでいると、自分の好き・嫌いも出てきます。
本書に書かれている範囲内で、私が共感するのは人物で言えば、ソクラテス、ヒューム、キルケゴール、サルトル。
時代はヘレニズム、ルネサンス、経験主義。
ソクラテスについて
ソクラテスの母親はお産婆さんだった。そしてソクラテスは自分のやり方を産婆術にたとえていた。たしかに、子どもを産むのは産婆ではない。産婆はただその場に立ち会って、お産を手伝うだけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が正しい理解を「生み出す」手伝いをすることだ、と思っていた。なぜなら、本当の知は自分のなかからくるものだからだ。他人が接ぎ木することはできない。自分のなかから生まれた知だけが本当の理解だ。(p.91)
ソクラテスは重要なところでソフィストたちとは違っている。ソクラテスは、自分はソフィスト、つまり知識(ソフォス)のある人間やかしこい人間ではない、と考えていた。だからソフィストたちとは反対に、教えてもお金を取らなかった。そうではなくてソクラテスは、ことばの本当の意味で自分は哲学者(フィロソフォス)だ、と名乗ったんだ。フィロソフォスとは、「知恵(ソフォス)を愛する人」ということだ。知恵を手に入れようと努力する人のことだ。(p.92)
ルネサンスについて
中世には、なによりも神が原点とされていた。ところがルネサンスの人文主義者たちは、人間そのものを原点にしたんだ。(p.256)
(「ルネサンス」は「再生」だということについて)そのふたたび生まれ変わるとされたのは古代の芸術文化だった。だからルネサンス人文主義(ヒューマニズム)って言われるんだ。あらゆる生活条件が神の光のもとに置かれていた長い中世のあと、今やふたたび人間が中心に末られたんだ。モットーは『源に戻れ!』だった。なによりも重要な源は古代の人間中心主義(ヒューマニズム)だった。(p.253-254)
経験主義について
経験主義者は、感覚がぼくたちに語ることから世界についてのすべての知をみちびき出す。経験主義的態度の古典的な定義はアリストテレスがしている。アリストテレスは、まず先に感覚のなかに存在しなかったものは意識の中には存在しない、といった。(p.331)
ヒュームについて
『わたし』という観念は、本当はけっして同時には体験できない一つひとつの印象の長い鎖みたいなものだ。ヒュームは『目にもとまらない速さ連続し、つねに流れ動いているさまざまな知覚の束』と言っている。ぼくたちの心は『劇場のようなものだ。さまざまな知覚がつぎつぎと登場しては去り、消えてはまた浮かびながら、際限なくいろいろなシーンをくりひろげている』と。だからヒュームによれば、ぼくたちは入れ替わり立ち替わり交代する知覚や気分の背後にも下にも、変わらない基本的人格なんてもっていない。人格はスクリーンに映る映像のようなものだ。フィルムのコマは目まぐるしい速さで入れ替わるから、映像は一コマ一コマフィルムの『合成』だということがわからない。映像は本当はつながってはいない。瞬間を無数に継ぎ足したものなんだ。(p.345)
時間を追って起こる出来事は、だからかならずしも原因と結果の関係にはないのさ。人びとに早合点を今しめるのは、哲学のとても重要な使命だ。早合点はいろんな迷信のもとになる。(p.352)
「合理主義者は、正しいことと正しくないことを見分ける力は人間の理性に宿っていると考えた。これは自然法の考え方だけど、ソクラテスからロックまで、たくさんの哲学者たちがこの考えに立っていたね。でもヒュームは、ぼくたちが言ったりしたりすることを理性が決定するとは考えなかった」
「じゃあ、何が決定するの?」
「ぼくたちの感情だよ。きみが困っている人を助けようと決めたら、それはきみの感情がそうさせたんだ。理性じゃない」
「助ける気が起こらなかったら?」
「それも感情がそうさせたんだ。困っている人を助けないのは、理性的なことでも非理性的なことでもない。あさましいことではあるかもしれないけど」(p.352-353)
「ヒュームによれば、すべての人間は他の人間の幸不幸にたいする感情をもっている。つまりぼくたちには共感する能力があるってことだ。でも、このことと理性はまるで関係ない」(p.353)
「ヒュームは、けっして『である文』から『べきだ文』は結論できない、と言っている。でも、そういうことがあまりにも目につくよね。とくに新聞記事とか、政党の綱領とか、議会での演説とか。」(p.353)
カントについて
「カントは、みんな一理ある、だけどみんな少しずつまちがっている、と考えた。」
(中略)
「カントは、ぼくたちが世界を経験するには、感覚も理性もそれぞれに一役買っていると考えた。合理主義者は理性にウエイトを置きすぎる、経験主義者は感覚にかたよりすぎている、と考えた。カントのばあいは理性じゃなくて悟性という言葉を使っている」(p.413)
「このへんでまとめてみよう。カントによれば、人間が世界を認識するためには二つの要素がいる。一つは外からやってくる、感覚によって感じとらなければ知りえないものだ。これは認識の素材だ。もう一つは、すべてを時間と空間の中の因果律にそった出来事と見なすような、人間にそなわっている内的条件だ。こっちは認識の形式だ」(p.418)
「まったくだ。カントも同じようなことを言ったと思うよ。ぼくたちが何者であるか理解するなんてことは望めないんだ。花や昆虫のことならわかるかもしれないけれど、ぼくたち自身のことはけっしてわからない。全宇宙がわかるなんてことも望めない」(p.424)
ヘーゲルについて
「ヘーゲルは、精神世界が歴史をつらぬいている、と言っているんだが、このことばもそういう意味で理解しないと。つまりヘーゲルは人間の生活や、人間の思考や、人間の文化について語ったんだ。」(p.462)
「理性もダイナミックなものだ、ひとつのプロセスだ、とヘーゲルは言っている。何がいちばん真実かとか理性的かとか決定する基準は、歴史のプロセスの外にはないのだから、真理とはまさにこのプロセスのことなのだ、とね」(p.464)
キルケゴールについて
「キルケゴールは、たった一つの普遍的な大真理の探求なんかより、個人が生きる上で意味のある、個人の数だけの真理を探究することの方が大切だ、と考えた。『この私にとっての真理』を見いだすことが大切だ、とね。体系に一人ひとりの個人、つまり単独者を対抗させたわけだ。キルケゴールは、ヘーゲルは彼自身もただの一人の人間だということを忘れていた、と考えた。」(p.484-485)
「 ブッダもキルケゴールも、人はほんのわずかな時間しか存在しない、とひりひりと感じていた。だとしたら、書斎にこもって精神世界について空想にふけってなんかいられないよ」(p.485-486)
「 美的実存の段階にいる人は不安やむなしさの感情におちいりやすい。でも、こういう感情に襲われるならまだ希望がある。キルケゴールは『不安』を肯定的に捉えていた。不安は個人が『実存的な状況』にあると気づいたしるしなのだ。すると、人はより高い段階へ跳躍するかどうか、自分で決めることができる。 跳躍するかしないか、どちらかだ。(中略)本当に跳躍しなければ、もうちょっとで跳躍するところだった、なんてなんにもならない。だれもきみのかわりに跳躍してあげるわけにはいかない。きみは一人で決断して、一人で跳ばなくてはならないんだ」(p.489-490)
マルクスについて
「マルクスは、働き方は意識に影響し、意識も働き方に影響する、と考えた。頭と手は相互関係にある、と言っていい。きみの思考はきみの労働とかたく結びついているのだ」(p.506)
ダーウィンについて
「ダーウィンは『重要なのは問うことで、答えをいそぐことはない』という、あらゆる本物の哲学者と同じ方法をとったのだ」(p.523)
サルトルについて
「サルトルはさらに、人間の実存は、人間とはどういうものかと言うことより先にある、と言っている。わたしがこの世に来てしまっているという事実は、わたしは何であるかということよりも先だ、ということだ。つまり、わたしがあるということは、わたしが何であるかということよりも先なんだ、ということだ。これを縮めると、『実存は本質に先立つ』というサルトルの有名な表現になる」(p.580)
「人間の本質とは、人間は本来これこれこういうものである、という定義だ。サルトルによれば、人間にはそういう本質はない。人間は自分をゼロからつくらなければならない。人間は自分の本質をつくらなければならないんだ。そんなもの、もともとないんだからね」(p.580)
「 哲学の歴史をつうじて哲学者は、人間とは何か、人間の本質とは何か、という問いに答えようとしてきた。ところがサルトルは、人間には拠り所となるような、そんな永遠の本質なんかない、と考えたんだ。だからサルトルによれば、ぼくたちはなぜ、なんのために生きているか、という問いに一般的な答えを出すことも、まったくナンセンスなんだ。別の言い方をすれば、ぼくたちは生を即興に演じなければならないという、ハードな運命にあるのだ。ぼくたちは役を仕込まれていない役者だ。シナリオもなければ、何をしたらいいかそっと耳打ちしてくれるプロンプターもなしで、気がついたら舞台に突き出されている。どうするかは、ぼくたち自身が決めなくてはならない」(p.580-581)
「 人間は、自分が実存すること、いつかは死ななければならないこと、そして何よりも、そういうことにはまるで意味なんかないことを知ると『不安』になる、とサルトルは言った」
(中略)
「サルトルは、人間は意味のない世界で自分を疎遠(フレムト)に感じる、とも言っている。 疎外感をいだくのだ。一人ぽっちで場違いなところに投げこまれて、周りはよそよそしいし、孤独だな、という感情だ。人間の「疎外(エントフレムドゥング)」と言う時、サルトルはヘーゲルやマルクスの思想の核心を受けついでいることになる。人間は自分がこの世界のよそ者だと感じると、絶望、倦怠、嘔吐、不条理感に襲われる、とサルトルは言った」
(中略)
「サルトルにとっては、 人間の自由は呪いだった。サルトルは『人間は自由の刑に処されている』と書いた。自由は人間にとっては運命なんだ。人間は自分で自分を自由であるようにつくったわけではないからだ。世界に投げ出されていながら、何をしても自分の責任になってしまうからだ」
(中略)
「ぼくたちは自由な個人であるのだ、そしてその自由のために、ぼくたちは自分でなにもかも決めるように、死ぬまで運命づけられている。頼りになる永遠の価値も基準もない。ぼくたちがどんな決断をするか、どんな選択をするかが、とてつもない重みをもってくる。人間は自分がしたことの責任から絶対に逃れられない、とサルトルは言った。 この責任は軽くいなすわけにはいかない。仕事だからいかたないとか、どう生きるべきかは世間の期待にそうよりしかたないとか、言ってはいられないんだ。そんなふうにして顔のない群衆の中にずるずるとずり落ちてしまう人は、人格や個性を失った大衆の一人になってしまう。そういう人は自分というものから逃げて、自分で自分をだましている。でも、 人間の自由は黙っていない。ぼくたちに、自分自身で何かをするよう、真に実存して本物の人生を送るよう強いているのだ」(p.581-582)
ボーヴォワールについて
「ボーヴォワールは、女性はこの責任を奪い返さなければならない、と言っている。女性は自分を取りもどし、安易にアイデンティティを夫に結びつけてはいけない。私はこれこれこういう男の妻です、なんてことで満足してちゃいけないのだ。女を抑圧しているのは男だけではない。女は、自分で生きていく責任を引き受けない限り、自分で自分を抑圧しているのだ」(p.585)