しばらく前に読みましたが、読書録を更新できていませんでした。
読み応えある1冊でした。
医療がテーマのドキュメンタリーで、内容は重たく単行本で325ページありますが、読みやすい文章と構成で引き込まれて、一気に読みました。
「透析を止めた日」(堀川惠子 著、講談社、2024年12月初版)
本書の著者は、テレビ局の記者としてキャリアを積み、その後フリーのドキュメンタリー・ディレクターとしてNHKや民放各局で番組制作に携わり、それと並行してノンフィクション作品を執筆していらした方。著作は、数々の賞を受賞されています。
本書は、夫であるジャーナリストの林新氏の闘病と看取りの経験をもとに書かれたものです。
血液透析という世界の実態
昔、仕事で、血液透析関連の器具の案件に携わったことがあり、日本の透析事情について少しだけ知識を得たことがありました。
世界では、腎移植が多いのに日本では手術件数が少なく、世界でも有数の血液透析大国だということも、その時に知りました。
どうしてなのかな、という疑問がありましたが、私の当時の関心の度合いはそこまでで、血液透析をされてる患者さんたちの負担はどれほどなのか、ということは想像もできませんでしたし、その方々の死の迎え方、ということは考えたこともありませんでした。
本書は、血液透析の患者さんがどういう生活をされているのか、その苦痛がどれほどのものなのか、その方々やご家族がどのように死を迎えるのか、という実態や、血液透析でも腎移植でもない腹膜透析という方法やそれがどこでどのように行われているか、といったことをリアルに伝えてくれています。
透析患者さんだけではなく、自分や身内や身近な人が「どう一生を終えていくのか」ということを考えさせてくれる1冊でした。
まだ60歳という若さでの闘病生活や、お二人での生活がこんなにも早く終わってしまうことなど、読んでいてもつらくなるところも多いのですが、
ここまで詳細に、なのに読みやすい構成と文体で、そしてご自身の生々しい心情を露わにした本になっているのは、ずっとドキュメンタリーの世界にいらした堀川さんという著者だからできることで、そこには何か引き合わせというか、天の思し召しのような気もしてしまいます。
ーーもし意識がなくて、身体を動かせない状態であるならば、いったい何のために透析をするのだろう。(中略)患者が意思表示をできない状態なら、透析を止める判断はいったい誰が、いつ下すのか。いや、そもそも透析を止めたら死んでしまう...。(p.121)
透析を行うためには、これだけ大勢のスタッフが懸命に働いてくれる。それなのに、透析の終わりについては、誰も納得のいく解を示してくれない。そこだけが深い霧がかかったように、何ひとつ見えてこない。(p.122)
私は少しでも穏やかな死に向かって、林を軟着陸させたいと思った。生きる希望を捨てようとしない彼のそばで、私の眼差しは死の方向に向いていた。それは、私が冷酷な人間だからなのか、私がいかなるときも冷めた観察眼で取材する訓練を受けてきたからなのか、それとも私が目の前に死を突きつけられた人間の気持ちを真に理解できていなかったからなのか、おそらくすべてだろうと思う。(p.126)
治療とは何か。医療とは何か。
本書を読んで改めて知ったことは、病院とは「病気や怪我を治す」場所である、ということ。
当たり前と言えば当たり前なのだけど、そこには、緩和ケアなどは含まれない。
AIの要約によれば、緩和ケアとは、「重い病気(特にがん)を抱える患者とご家族の、身体的、精神的な苦痛を和らげ、より豊かな生活の質(QOL)を維持・向上させるためのケア」。
人生100年時代になってきた今、どう死んでいくのか、は新たなテーマ。
何歳まで「治す」を目指すのか。
そろそろもう治すことをあきらめて、緩やかに、穏やかに、死に向かっていきたいなというとき、そこには、現在の健康保険や医療機関はどれくらい対応できるのか。
少なくとも今は、「治療」と「緩和ケア」の間に分断があるようだったり、「緩和ケア」はがんなどの特定の病気に限られているように、本書からは感じました。
どう死ぬのか。どう生きるか。
そのような現在の実態について、行政や医療機関だけを問いただすのもまた違うような気がします。
病気になったら、私たちはやっぱり「治す」「元通りにする」「回復する」ということを求めてしまう。
「その病とともに生きていく」ということをなかなか受け入れ難い。
その国民のニーズを受けての、現在の医療体制なのだろうと思います。
さらに、緩和ケアをしていくということは、本人も家族も、死を受け入れるということでもある。
「もう死に向かっていくことを受け入れよう」とは、自分や家族が健康な時や、他人の家の事であれば言えるけど、実際に我が身に起きた時には、きっとすぐにはそう簡単はいかないのだろうと思います。
単に生きながえているのは嫌だといったって、命の綱を切ってしまうのは怖い。それが自分の責任となればなおのこと。
いろんな限界や疲弊が起きているとも言われる日本の医療。
どう生きていくのか。どう死んでいくのか。
はるか昔、医療が充実していなかった頃は、こんなことを考えたり悩んだりすることもなく、生きることにただ精一杯で、病や怪我を機に自然に亡くなっていったと思うと、贅沢な悩みとも言えるかもしれないですし、かつてはなかった新しい悩みが増えてしまったと言えるかもしれません。
いずれにせよ、今生きているのはそういう時代なんだなぁというわけで。
疲弊し切った制度の中で、人自体も疲弊していくという、いったい誰が誰のために何をしているのだろう?という不可思議な状態は避けたいなと思います。
そのためには、本人、家族、医療現場の方々、行政の方々、それぞれの場所にあるそれぞれの本音を聴き合うプロセスの必要性も感じます。
本書から聴こえてきた現場の声を少しだけ引用して、この記事を閉じたいと思います。
「ひとり、ひとりの患者さんが、生まれてから死んでいくという人生の中で、"死因”ではなくて、”死にざま"も同じくらい大事だろうと思うんです。透析を止めるという段階の患者さんはもう、よほど苦しい状態になっています。だから終末期の苦痛をせめて、少しでも何とかしてあげたい。そのためには透析医も今後、鎮静とか麻薬性鎮痛剤の勉強をして、スタンダードに使えるようにしていかないといけないと思います。」(p.222, 富山・黒部市民病院 吉本敬一医師)
この日、松浦医師が案内してくれた緩和ケア病棟(広島県安芸市民病院)はどこも似たような構造だが、患者本人のみならず家族ら介護者のケアまで行うのが緩和ケアだということを実感する。(p.237)
「マニュアルは独り歩きします。緩和ケアは本当にケースバイケースで、ひとりひとりの患者さんに向き合って手探りでやるものです。痛みと眠気のさじ加減を慎重に観察しながら、薬の種類や量を変えていく。終末期の透析も一律に治療と捉えるのではなくて、呼吸苦などの症状を抑えるための"緩和の手段"と考えて、もっと柔軟に対応することもできると思うんです。緩和ケアでは患者と医師がゴールを目指して話し合い、適切な方法を見つけていく共有意思決定がことさら大事なんですよ」(p.239, 広島県安芸市民病院 松浦医師)
ひとは一人で生まれてくることができないように、一人では死んでいけない。多くの助けがあってこそ、初めて人間らしく、尊厳を持って死んでいける。(p.239)
一般に、過剰な延命措置を行わない「尊厳死」には、多くの人が賛同する。問題は、尊厳死という選択の先に、まるで安らかな死があるかのように錯覚されていることだ。尊厳死と安楽死が、混同視されている。(中略)多くの場合、緩和ケアが機能しなければ、尊厳死を選んだ先にある死は必ずしも平穏なものにはなりがたい。(p.241)
ご自身や身近な方が透析をされている方は、当事者として、いろいろな感情が湧く本かもしれません。共感や胸がすくように感じられる方もいらっしゃるかもしれませんし、違う感じ方もあるかもしれません。
この世界をよく知らなかった私としては、知らなかった社会の側面を教えてくれる、そして、社会に問いを投げかけるドキュメンタリーとして、読んでよかったと感じる1冊でした。
この記事は、こんな人が書いています。
お気に召す記事がありましたら、ぜひシェア頂ければ嬉しいです。また、もしこのブログを読んで、ここで紹介されている本を購入しようと思われた際は、ここみち書店(神保町PASSAGEbis!内)もしくは、このブログ内のamazonへのリンクを経由して購入頂けると幸いです。私にとって皆様が本に出会うことのお役に立ったことを知る機会となり、励みになります。
本書に出てくる本:
(↑夫の林さんがライフワークとして執筆を始めた犬養毅の生涯を描いたもの。没後、堀川さんがその意志を継いで完成。2019年に第23回司馬遼太郎賞を受賞。)
この記事がお気に召す方は、こちらもきっとお好きではないかなと思います。


