手放す前にもう一度読んでおこうと読み始めたらみたら、なんだか、とても良いお話でした。
以前の私では気づけていないことが沢山あったみたいです。
「リトル ターン」(原題:Litter Tern、Brooke Newman著、五木寛之 訳、Lisa Dirkes絵、集英社、2001年11月初版)
題名のLittle Ternは、「小さいアジサシ」の意味。アジサシは、チドリ目カモメ科の体長35㎝くらいの鳥です。飛ぶことにとても長けているのだそう。名前から「鯵の刺身」を連想してしまうのですが、「鳥の図鑑」によると、実際、鳥の名前も漢字でかくと「鯵刺」だそうです。鯵をくちばしで刺して仕留めるのかな・・・。
さて、本題。
本来は飛ぶことが得意で、起きている時間のほとんどを空中で過ごしているこのアジサシの一羽が、何故か飛ぶことができなくなってしまったというところからのお話。
病気でもない。怪我でもない。ただ飛べなくなってしまった。
そこで、初めて海岸のことに目が向いたり、星空を見たり、紫色の花を見つけたり、ゴーストクラブ(スナガニ属、英語名:Ghost Crab)に出会ったり、また出会えなくなったりして、何かを感じていく。
そんな、とても短い物語です。
私の記憶違いである可能性も高いですが、この本は、私が人生で最もつらかった時期に母が私に回してくれた本のような気がしています。
その頃の私は、塞ぎ込んでいて、この本も、全く入ってこなかった。
どうしても小さな鳥が目に浮かばない「アジサシ」や、名前からはこの世に実存するのかしないのかよくわからない「ゴーストクラブ」という文字に引っかかってしまったりもして、全然入り込めなかった。絵本のような本なのに、最後まで読めなかった気もします。
以来、ずっと、実家の本棚に置かれたままでした。
ただ、今、改めて、この本を読むと、母が私に贈りたくなった気持ちもわかります。
飛べなくなった痩せたアジサシ。彼の心に宿るのは、燃えるような向上心や、上昇志向ではない。サウダーデとか、トスカと呼ばれるような一種、鬱の世界である。これは挫折者の物語、引きこもりの物語といってもいいだろう。(p.92、五木寛之 あとがきにかえて)
これは、まさに当時に私の状態。
その時まで、好奇心旺盛さと向上心だけが売りだったような自分が、そうではない状況に陥って、でも、どうやって抜け出したらいいかもわからない状態。
今思えば、もしかしたら、鬱の一歩手前だったかもしれない。
前に進むこと、速く動くことしか知らなかった自分が、急に動けなくなった状態。
当時の私は、この本には心を開かなかったけれど、カウンセラーや他の本(例えば「怖れを手放す」)などの助けを借りて、この主人公のアジサシが通ったのと同じ道を通った気がします。
そしてそれは、そのようにしてでも強制的に立ち止まらなければ、私が気づき得なかった人生の大事なことを学ぶ期間でもあったように思います。
アジサシを経験し、その後、カウンセリングやコーチングを学び、そして今はコーチとして様々な人生を聴いている今の自分には、本書の言葉がとてもよく響きます。
飛ぶ能力をもたない自分でも、まだ鳥と呼べるのかどうかを、ややうろたえながら自分に問いかけた。
もし、自分が鳥でないのなら、いったいぼくは何なのだろう? カバでも、サイでも、人間でも、ブヨでも、ニシキヘビでも、ネズミでもない。(p.29)
昼も夜も濡れた砂に打ち寄せる波の音に耳をかたむけた。そしていつかふたたび目ざめて飛べるようになるという希望をすてることなく、地上で暮らしながらいつも空を見上げていた。(p.33)
ぼくは毎日、さまざまなことが起きるのを注意ぶかく見まもった。さまざまなことの中から、何か答えが見つかるのではと期待しながら。そうするうちに、やがてモノトーンと見えるもののなかに、あざやかな、いくつものいろが見えてきたのだ。ぼくは気づいた。それまでぼくが生きてきたモノトーンのなかで、自分は本当のものを何ひとつ見ていなかったのだと。(p.38)
それでも、ぼくは考えた。もし求める気持ちを自分の心から追い出してしまったら、その時は自分が求めるものを手にするのは、とんでもなく困難になるだろうと。(p.44)
友情は、一瞬にして生まれるものではない。ぼくたちが知り合うには、時間が必要だとぼくにはわかっていた。特にお互いの立場を考えると、なんといっても、彼はカニで、ぼくは鳥なのだ。(p.49)
ぼくは辛抱づよく待たなければならなかった。それはぼくには、つらく、慣れないことだった。(p.50)
ぼくの話が終わると、彼は手短に言った。「普通とか普通でないとかいう見方にとらわれている限り、普通でないものは普通じゃないんだ。」(p.64)
朝の海岸には霧が立ちこめ、ぼくはむなしくゴースト・クラブを探した。見えるのは、周囲の灰色だけだった。海岸は霧のなかに消えた。それは本当に不思議な現象だ。ある時は遠くまで見えていたのに、次の瞬間には何も見えなくなる。見ていたものが消えるのか、それともまだそこにあるが見えないだけなのか、どちらなのだろうと、ぼくは不思議に思った。(p.70)
ゴースト・クラブが現れるのを待つのを、ぼくはやめた。彼に会うことがさほど嬉しくなくなったというより、ただ待つだけの日々をすごすのをやめたということかもしれない。どうして待つのをやめたのかと聞かれても、言葉にするのは難しかっただろう。毎日がとても忙しいので、と言うしかない。学習し、物を集め、さらに観察をかさねて、ぼくはしだいに気づきはじめた。ゴースト・クラブが言わんとしていたのはおそらく、ただ待って時間を無駄にすることと、待ちながらじっくり学ぶことの違いを発見せよ、ということではなかったのかと。(p.74)
そして、あとがきにある、五木寛之さんの言葉に、とても共感します。
これは必ずしも多くの人に読まれる本ではないのではないか。飛べないことで悩んでいる人、急に飛べなくなって困惑している友に、この一冊をそっと手渡したい。(p.93、五木寛之 あとがきにかえて)
今、この本が助けになる人のところに、届きますように。
私自身がこの本から学びを得たことに感謝しつつ、「ここみち書店」に並べます。
ぜひ神保町・PASSAGEへお越しくださいませ。
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全然違う話なのですが、タイトルと鳥の絵と翻訳者を見ると、どうしても「かもめのジョナサン」tと何か関係あるのではないかと思ってしまう。。。こちらは、古い本ではなく2014年に出版された「完成版」を読むことをオススメします。