日日是好日を観に行ったときの予告編で気になっていて、先日、上映終了前ぎりぎりに行ってきました。
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」(主演:大賀、吉田羊、監督:御法川修)
大好きな母親から虐待を受けて育った子供が、大人になって、自分からその関係性を修復し、母に愛を届けようとするお話。
原作者である歌川たいじさんの実話(原書:「母さんがどんなに僕を嫌いでも」)をベースにした映画です。
予告編を見るだけでもだいたいのストーリーは想像できてしまうのですが、
それでも、ぼろぼろ泣きました。
「理解は、気づいた方からすべし。」
「親に変わってほしかったら、まず自分が変われ。」
ひどい虐待を受けてきた主人公が友人からのこれらの言葉をきっかけに、自ら母親に関わり直していきます。
それができたのは、この言葉の力だけではないはずです。
大人になってできた友人や、血のつながっていない「ばあちゃん」の存在。
彼らが愛をくれたから。一歩踏み込んで関わってくれたから。
それらがなければ、きっとこんな奇跡は起きなかったでしょう。
このことからはいろんなことを思わされます。
血がつながっている人たちだけではなく、血のつながっていない目の前の人たちに対しても、何かできることがある。
人は、もしかしたら、本当は、他者からのおせっかいな関わりを求めているのかもしれない。
人は、いろんな人に支えられている。
関係性は繰り返されると言います。
虐待する母親を、ひどい親だと非難することは簡単です。
ですが、その母親も、愛の表現の仕方、愛の受け取り方を知らずにずっと生きていたのかもしれないと思うと、少し見方も変わります。(この不安定な母親を、吉田羊さんが素晴らしく演じていらっしゃいました。)
主人公の行動は、自分を癒し、母親を癒し、世代を超えた負のスパイラルを彼のところで止めたのだと思います。
YouTubeで見つけた試写会(?)のときの御法川監督の言葉が心に響いたので、引用させて頂きます。
ぼくは原作を読んで一番心を打たれたのは、人生は循環できるっていうことだったんですね。
歌川さんの人生ほど壮絶でないにしても、どんな人だって、それぞれ、みんな、ふりかえるのがつらくなるような記憶だったり、かさぶたのまま放置してしまっている傷のひとつやふたつ、必ず生きていたら、みんな抱えているものだと思う。
それを切り捨ててなかったことにしてしまうんではなくて、嬉しいことも悲しいことも、全部自分を形成してきたものだから、今現在進行形で得られた友からの友情だったり、愛する人から得られた優しい気持ちが今あれば、それをかつて愛されなかった自分の意識に、自分の中で渡してあげることができる、人生を循環していくことができるんだ、ぼくは、そのことを原作から大きな気づきとして得られたんです。そういうふうに気づくことができたら、今日よりも明日、明日よりも明後日、ちょっとずつ気分をいいものにしていくためのエネルギーになるんじゃないかなと思って、それを映画にしたいと思ったんです。
(注:聞き取って書いているので、正確ではありません。)
このストーリーは、極めて稀な幸運なケースであるとは思います。
映画で表現されている以上の難しい状況や膠着状態も、きっとあったんだろうと思います。
それであっても、関係性は気づいた方から変えていくことができる、そういう希望をもらう映画でした。
また、関係性を諦めないこと、コミットのすることの強さを改めて思い出させてもらう作品でもあり、
同時に、裏返しですが、関係性を諦めてしまったらそこで終わりなんだということも思わされ、自分のこれまでのいろんな人間関係において、自分はどうだっただろう?とふりかえったりもしました。
人間て、めんどくさい。
そのめんどくささが、人間なのかも。
主演の大賀さんの演技は、とても好きでした。
ゴスペラーズの主題歌がよくあってました。