ここみち読書録

プロコーチ・けいこの、心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

福翁自伝

今年、一番読んでよかった本です。

福翁自伝」(福澤諭吉 氏 著、富田正文 氏 校注)

福澤諭吉先生、66歳の時に著した自伝。その2年後の1901年没。享年68歳。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

 

慶應義塾大学の新入生には、もれなく、入学記念として福翁自伝が贈られます。

私もその一人。

大変恥ずかしながら、もらったまま、全く手をつけておりませんでした。

諭吉先生にも、先輩の塾員方にも、怒られてしまいそうです。

(慶應義塾では、先生は福澤諭吉のみという考え方で、教員・教授たちは「君」づけで呼ばれます。また学生のことを塾生、卒業生のことを塾員と呼びます。)

1ページもめくられることなく新品の状態で実家の本棚に眠っていたこの本に、今年なぜか手が伸びまして、読み始めました。

そしたら、ものすごく、面白かった。

もっと早く読めばよかった!!!と何度も思いながら読みましたが、一方で、自分も独立した今だからこそ共感できることが沢山あるだろうとも思います。

私にとっては、今が読み時だったのかもしれません。

改めて諭吉先生に出会えたことに感謝です。捨てずにいてよかった。

 

 

福澤諭吉という人物、慶應義塾という場

慶應出身の人に親子代々事業で成功し裕福な方々が多いという印象を持っていたからでしょうか。

私は無意識のうちにも、福澤諭吉という人について、お金には全く困ったことのない、泥臭いようなものとは縁遠い、ビジネスや金融の才覚に長けた人、人にも恵まれ、高みの見物ができてしまう、総じて人生であまり困ったことがない人、というような思い込みを勝手につくってしまっていたようです。

また慶應義塾についても、誤解を恐れずに言えば、「三田会、三田会」と結束を固めることが時に閉鎖的・排他的にも感じられて、なんとなくの違和感を持ち続けていました。

 

実際はどちらも全然違いました。

 

生い立ち、人柄

豊前(九州)中津藩の下級武士の家に生まれ、幼少の頃から身分的差別を受けながら育つ。

藩の風土も、極めて封建的。門閥制度(生まれた家で生涯の身分や地位が決まる制度)が当然な風土。

これが諭吉先生には嫌でたまらない。

この環境の中で感じた窮屈さ、生まれた家で全てが決まる理不尽さへの憤り、身分が上だというだけで威張り散らす上級武士や官職の人たちへの嫌悪と侮蔑。

これらが一つの諭吉先生の生涯を通じての原動力になっています。

著書「学問のすゝめ」の有名な冒頭の一節「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」も、この実体験から来ているのだと思うと、よりリアルに聞こえてきます。

 

3歳で父を亡くし、経済的にも困窮します。

鄙事多能(ひじたのう、孔子の言葉。自分は育ちがいやしいので、些細な仕事もつまらぬ仕事も何でもやってきた、の意味)。

障子の貼り直しから雨漏り対応まで、何でもやってきたし、その器用さを生かして、内職をして家計の足しにしたり、いずれ役に立つかもと、あんまの施術まで習ったりもしています。

 

けれども、自分はひとかどの人間になる、という傲慢とも思える自信は小さな頃から感じられます。

ゆえに、学問を諦めることはなく。

お金がないならないで、どうにかする。あるいは、お金ができるまで待つ。借金はしない。

例えば、長崎では砲術家・山本物次郎、大阪では緒方洪庵のところで、食客(他人の家に寄宿し、養われて生活する人)として食べさせてもらいながら学ぶ代わりに、家事から子供の教育まで、どんな仕事でも厭わずに引き受けています。

実家の借金を片付けて自らの道を進むために、家財を大胆に手放したりもしています。これを了承する母親もご立派と思います。

住まいや寝床がどんな場所であっても構わない風だし、読んでいると、筋肉隆々の逞しさとは違う、生き抜く力を感じます。

 

勉強は、別に最初から好きだったわけではなく。

むしろ家は貧しいので、教育のことまで世話がまわらず、ほったらかし。

それでも、周りの人が皆本が読めるようになって恥ずかしいと思うところから、自ら思い立って、14歳か15歳くらいから読むことを始めています。

学問のために学ぶ、と言うよりも、好奇心に突き動かされて、もっと深く知りたくて、分野関係なく読み進む、理解できるかできないかにこだわらず、気が済むまで読み進む、という印象を受けました。天性の才能がこれを助けています。

最初は漢学を一通り、そして蘭学へ。後に蘭学から英語に転向した後は、日本国内に先人がいるわけでもなく、英語の辞書だけを頼りに自ら学び、数々の翻訳書を出版したというのは、いったいどういう技なのだろうと思います。

英語の先生はいないし、有識者は蘭学の世界にとどまるばかりなので、横浜に英国人や米国人の子供がいると聞けば自ら出かけて行って子供からをも学ぶ。学べるものからは何でも学ぶ。

 

やると決めたことのためには何でもやる。

逆に、命令や風習に盲目的に従うことはなく、理不尽だと思えば、従わずにうまいことすり抜けていく感じも随所に表れています。

秀逸なのは、22歳の頃。

藩の家老・奥平壱岐の妬みを受けて、遊学中の長崎から中津に戻されそうになる時、手紙を偽造して裏から根回しをして、中津に戻らず大阪に行ってしまうなど。

 

お金はないけど、お酒は大好き。多少でも手元にお金があると、連れ立って飲みに行ってしまう。

自ら借金をすることはなく、女性関係も身綺麗だけど、それ以外ではかなり、やんちゃ。

飲み屋で使えそうな茶碗をかっぱらってくるとか、街の中での小さないたずらをいろいろやって仲間と大笑いしてる。

仲間をちょっと出し抜いたりするのも好き。

 

この辺りの、上の者の良いようにはされないしたたかさや、やんちゃな感じ、我が身にも周囲にも覚えがあります。

この先生あって、我らが塾生・塾員か、と。

妙に親しみを覚えてしまいました。

 

世俗的な流行には興味はないけれど、市井の生活や人々の動きから世の中の動きは敏感に察知している。

蘭学がもはや役に立たないと気づけば、すぐに英語に転向して取り掛かる。

新しい洋書に出会う機会も逃さない。

一方で、大きな借金をしてビジネスを大きく仕掛けるとか、そういうことはしない。というか、臆病でそんな度胸はない、金勘定も向いてない、と自覚している。

 

慶應義塾の発展

福澤諭吉という人は、後々まで続く大きな大学を作ろうとしていたわけではない。

大事業を起こして何か大儲けしようとしていたわけでもない。

立身出世には全く興味も野心もない。身分を取り立ててもらおうとも思わない。故郷に錦を飾る的なことも興味がない。

人にもモノにもカネにも土地にも執着がない。

 

諭吉先生を突き動かしていたのは、日本にはびこる封建制度・門閥制度を覆したいという気持ち。

それには、日本人ひとりひとりが独立の精神を持たねばならない。

その思いを発信し、体現し続けた諭吉先生のところに、共感する人たちが集まった。

そして(諭吉先生自身が戦略的にというよりも)門下生たちが塾を大きくしていった。

おそらく門下生たちは、諭吉先生が見せてくれる新しい世界を渇望し、先生と一緒にいること、一緒に何かやることが楽しかった。嬉しかった。

その同志たちと一緒にいることも楽しかったし、嬉しかった。

そんな絵が浮かんでくるようでした。

幕末から明治維新の頃にかけてのムーブメントをつくっていった人なんだな、ということがとてもよく伝わってきました。

 

独立自尊とは何か

独立自尊。これは慶應義塾の理念です。

私は高校から慶應義塾に入りまして、その頃から「独立自尊」という言葉は何度も聞かされてきました。

が、その実、私は何もわかってなかった。ということに、この本を読んで気づかされました。

「心身の独立を全うし、自らのその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」。

自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味する、慶應義塾の基本精神です。(慶應義塾HPより)

 

諭吉先生を確実に憤らせるものが2つあります。

一つは、己の身分の高さを誇示して、または背後の権威者の力を笠に着て、空威張りをすること。

もう一つは、自分自身を格下の者として、自ら自分を貶めるような態度を取ること。

 

前者は特に目新しくないと思います。

このように振る舞ってしまう人は現代でも沢山いますが、それが美しくないことだということは、江戸時代でも、気づいている人はいたでしょうし、徳のある人々はこの頃でも身分に関わらず人に敬意を持って接することを実践していただろうと思います。

 

きっと当時の人たちにとって、より新しかったのは後者ではないでしょうか。

 

例えば、江戸時代には乗馬して通行することは武士のみに許される特権でしたが、この制度が撤廃された後も、馬に乗ってきた百姓が、諭吉先生たちを見るや馬を飛び降りてしまったのを見て憤りを感じています。

またこの時に、「古来の習慣は恐ろしいものだ、この百姓らが教育のないばかりで、ものがわからずに、法律のあることも知らない。しもじもの人民がこんなではしかたがない」(p.232)と案じています。

 

独立。

それは、自らの尊厳を自ら保つことが土台にあることなのですね。

現代において、「独立」というと「経済的に自立すること」と理解することがほとんどではないかと思います。

でも、実は、それは関係ない。

諭吉先生も、食客として生活していた時期もあります。

その時期であっても、決して独立を失っているわけではない。

食べさせて頂いている。世話をしてくれるあなたも私がここにいることを快く思っている。

私も家事はする。かといって、全てあなたの言うなりではない。私も、ここで生活をすることを快く思っている。

この対等さは、自らに独立の精神があってこそできるものです。

 

また、独立とは、誰かに操作される存在にはならない、自分の選択権を自分で守っている、ということでもあります。

諭吉先生は、その学識や知見から、明治維新後も官職につくことを請われたりしますが、ことごとく、それを断っています。

幕末は幕府に仕えていますが、そこにいた方が情報が入るとか、海外の文書に触れられるとかそういう目的であって、政治のためでも、自分自身の身分を確保するためでもありません。

また、維新後には、ある役割を引き受けてもらうことを含めながら資金援助を申し出てくるような人には、その援助を断ったりもしています。

誰かの手先となったり、誰かに加担し続けることを強要されそうになったり、保身のために忙しくなったりするようなところからは、徹底して距離を置いています。

自分自身の考え方、自分で見たもの、自分で信じているものを大切にする。

といって、扇動を狙った派手な行動もしない(これが、物騒な時代の中で身の安全を守りました)。

幕末〜明治維新の人なのに、この時代を扱う大河ドラマなどでも諭吉先生がほとんど登場しないのは何故なんだろう?と、かねてから不思議に思っていたのですが、その理由がとてもよくわかって、腹落ちしました。また、このスタンスに、とても共感もしました。

 

この「独立自尊」の考え方は、塾風はもちろん、諭吉先生の親子関係においても表れています。

義塾では、先生や教員と廊下ですれ違う時に、書生がお辞儀をするのは、お互い忙しい中にウルサクてたまらないからと言ってやめさています。(p.212)

今、周囲の塾生・塾員を見ても、妙にペコペコする人がいないと思うのは、この当初からの校風が染み付いているためかもしれない、と思いました(もちろん、自分自身も含めて)。

また、自分の子供に対しても、9人全員を等しく愛し、平等に財産を残しています(当時の風習では家督を継ぐ息子が総取りするのが普通)。

教育も、絶対に子供たちを学者にしてやらなければ、ということもない。

衣食を授けて、親の力相応の教育を授けて、ソレでたくさんだ。どうあっても最良の教育を授けなければ親たるものの義務を果たさないという理屈はない。親が自分にみずから信じて心に決しているその説を、子のために変じて進退するといっては、いわゆる独立心の居どころがわからなくなる。親子だといっても、親は親、子は子だ。その子のために節を屈して子に奉公しなければならぬということはない。よろしい、今後もしおれの子が金のないために十分の教育を受けることができなければ、これはその子の運命だ。(p.256)

実際には、甥をイギリスに、子ども2人をアメリカに送ることができていますが、親子関係においても、独立した一人の人間として子供を扱っていることが伝わってきます。

 

この本の価値 ー当時の日本を知る

この本を通じて諭吉先生の生涯について知ることができますが、本書はそれ以上の価値がある本だと思います。

 

まず、シンプルに、とても、面白い。

2021年の大河ドラマの主人公だった渋沢栄一さんもそうですが、幕末から明治という激動の時代において、先進的な考え方を持ちながら生き抜いた人物の物語は、それだけで読み応えがあります。

 

そして、諭吉先生の卓越した観察眼と文才によって、幕末当時の日本を知る文献という意味でも、非常に価値のある本だと思います。

幕府 vs 尊王攘夷 の実情

歴史の教科書的には、表面的に見れば、開国しようとする幕府 vs 真っ向から外国を敵視する攘夷(外国人を打ち払って日本に入れないこと) の対立のように習いますが、

実際には、幕府は全く開国の精神ではなく、攘夷派よりもよっぽど攘夷の精神であると見抜いています。

(前略)さてこの日本を開いて外国交際をドウするかということになっては、ドウも見ていられない、というのは私は若いときから洋書を読んで、それからアメリカに行き、その次にはヨーロッパに行き、またアメリカに行って、ただ学問ばかりでなく実地を見聞して見れば、ドウしても対外国是はこういうようにしむけなければならぬと、ボンヤリしたところでも外国国際法ということに気のつくのは当たり前の話であろう。ソコデそのわたしの考えから割り出して、この徳川政府を見ると、ほとんど取りどころのないありさまで、当時日本国中の輿論はすべて攘夷で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば聞こえもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋ぎらいは徳川であるといってまちがいはあるまい。あるいは後年に至って大老井伊掃部頭(注:井伊直弼)は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったかというようなことを、世間で吹聴する人もあれば、書に著した者もあるが、開国主義なんて大うその皮、何が開国論なものか、存じがけもない話だ。(中略)またこの人が京都周辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、これは攘夷論を憎むためではない、浮浪の処士が横議して徳川政府の政権を犯すがゆえに、その罪人を殺したのである。これらの事実を見ても、井伊大老は(中略)開鎖の議論に至ってはまっくらな攘夷家というよりほかに評論はない。ただその徳川が開国であるというのは、外国交際の衝に当っているから余儀なくしぶしぶ開国論に従っていただけの話で。一幕まくって正味の楽屋を見たらばたいへんな攘夷藩だ。こんな政府に私が同情を表することができないというのも無理はなかろう。

(中略)

しからばすなわちこれに取って代わろうという上方の勤王家はドウだというに、かれらが代ったら、かえっておつりの出るような攘夷家だ。コリャまた幕府よりかいっそう悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷(注:佐幕とは幕府の存続を支持すること)と名こそ変れ、その実は双方とも純粋無雑な攘夷家で、その攘夷に深浅厚薄の別はあるも、つまるところは双方ともに尊攘の仕振りが良いとか悪いとかいうのが争論の点で、その争論けんかがついに上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を撃ち合うようなことになるであろう。ドチラも頼むに足らず。そのうちにも上方の勤王家は、事実において人殺しもすればつけ火もしている。その目的を尋ねてみると、たといこの国を焦土にしてもあくまで攘夷をしなければならぬというふれこみで、いっさい万事一挙一動ことごとく攘夷ならざるはなし。しかるに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立っているのであるから、なんとしてもこれに同情を表して仲間になるようなことはできられない。これこそ実に国を滅ぼすやつらだ、こんな不文不明なわからぬ乱暴人に国を渡せば亡国は眼前に見える、情けないことだという考えが、しじゅう胸にしみ込んでいたから、なんとしても上方の者に左袒する気にならぬ。(王政維新  p.183-186)

 

幕府の鎖国主義や門閥制度は嫌いだから幕府には加担したくない。

といって倒幕派を見れば、いっそうの攘夷論で乱暴者ばかり。

だから、こんな表面上の開国をしても意味がないし、その所詮見かけだけの開国についての是非を侃々諤々論争したり斬り殺しあったりしても全く意味がない。

男たるもの命を賭す、当たって砕けるなどという性質は自分にはない。

そんな論争に自分の時間や労力や生命を奪われるよりも、この血生臭い時代にいても、淡々と自分のやるべきこと、つまり外国の文献を訳したりして本当に外国に学びそれを日本に伝えることをやっています。

 

日本人の性質

日本人は、この150年の間、全く変わっていないのだな、と言うことも感じさせられます。

生麦事件の賠償を求めるイギリスへの返答を何回も先延ばしにした挙句、痺れを切らしたイギリスとそれに同調するフランスが、このまま回答がなければ品川沖を軍艦で暴れ回るぞ、といって来た頃、

これはいよいよやるに違いないと鑑定して、うちの方の政府を見ればいつまでも説が決しない。事がやかましくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこにあるかわけがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズで、いよいよ期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。(後略)(攘夷論 事態いよいよ迫る p.142)


まるでコロナ禍を受けて、対応が決まらない今の日本そのもの。

話の具合が悪くなってくると入院する、というのは古くから日本の政治の常套手段のようです。

また、上記抜粋の通り、世論が「ワッ」と騒ぎ立てるのもまた、昔と変わらず。

ちょうどこの本を読んでいた頃、海外からの渡航者を受け入れるかどうか、という議論がされていたところだったので、鎖国か開国か、という当時の時代と重なって、より一層、今も昔も何も変わらない、と感じました。

 

漢学を敵とする理由

他方、今の日本を見ていて、私は、明治維新の頃、西洋に振り切りすぎたのでは?日本の良いものも捨ててしまったのでは?と感じることもよくあります。

それについてもひとつの解を見たように思いました。

諭吉先生は、古い慣習が染みに染み付いた当時の日本では、相当に振り切って古いものを徹底的に切り崩さなくては、新しい考えが浸透することはありえない、と見ていました。

だから、自分は漢学など全て一通り学んだ身でありながらも、あえて、徹底的に古いもの=漢学を否定する立場を取ります。

意識的にそういうポジションを取ったということだと思います。

ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学(注:Physical Science、実学、物理学)と、無形において独立心と、この二点である。(中略)近く論ずればいまのいわゆる立国のあらんかぎり、遠く思えば人類のあらんかぎり、人間万事、数理の外に逸することはかなわず、独立のほかによるところなしというべきこの大切なる一義を、我が日本国においては軽くみている。これでは差し向き国を開いて西洋諸強国と方を並べることはできそうにもしない。まったく漢学教育の罪であると深くみずから信じて、資本もない不完全な私塾に専門家を設けるなどはとても及ばぬことながら、できるかぎりは数理をもとにして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕ちょいとした話の端にもその必要を語り、あるいは演説に説き、あるいは筆記にしるしなどして、その方針に導き、また自分にもさまざまな工風して躬行実践を務め、ますます漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が、社会の実地にのり出して、その身分職業の如何にかかわらず、物の数理に迂闊ならず、気品高尚にしてよく独立の趣意を全うする者ありと聞けば、これが老余の一大楽時です。(王政維新 p.207)

かくまでにわたしが漢学を敵にしたのは、いまの開国の時節に陳く腐れた漢説が後進少年生の能中にわだかまっては、とても西洋の文明は国にはいることができないと、あくまでも信じて疑わず、いかにもしてかれらを救い出してわが信ずるところに導かんと、あらんかぎりの力を尽し、わたしの真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、おれがひとりで相手になろうというような決心であった。(王政維新 p.208)

 

アメリカとヨーロッパの見聞録

また、諭吉先生は、日本から初めて海外に渡った咸臨丸(かんりんまる)に乗船し、勝麟太郎らとともに、日本人として初めてアメリカに上陸した一人です。

また、その後、ヨーロッパにも渡り、さらにもう一度アメリカに行っています。

この時代においてすごいことだなと思います。機会が巡ってくることも、身の危険を顧みずに何度でもいくことも。

各地を訪問して現地で驚いたこと、感じたことなどを記録した文書としても、とても価値があると思います。

読んでいても、とても新鮮に感じられる部分です。

 

今居るところには、居るべくして居るのかもしれない

私が慶應義塾に入ったのは、本当にまぐれのようなものだと思っています。

高校受験当時、私が行きたかったのは青山学院。高校受験案内の分厚い本の制服のページばかり見て、いろんなプリーツスカートを履いて共学の学校で青春する日々を夢見ていました。

塾の先生から慶應義塾女子高校の受験を勧められ、私としては記念受験、合格したら塾の実績にもなるんだろうな、というつもりで日程を入れました。

受験当日のことはよく覚えています。

苦手な数学で行き詰まり、「あー、無理だ。これで終わりだな。」と思った時、天から何かが降ってきたようにハッと解法の道筋が見えて、するすると手が動きました。不思議な体験でした。

入学後に同級生が「今年の数学は簡単だったよね」と言っているのを聞いて、ああ、本当に幸運だったとしか言いようがないな、と思ったことも覚えています。

 

受験をするときも、合格した後も、母は母で別の心配をしていました。

地方出身の両親も、親戚中見渡しても、慶應どころか私立大学の出身者など一人もいない。

慶應などというお金持ちそうな、華やかそうなところに入って、この子は大丈夫なんだろうか、いろんな違いに苦しまないだろうか、と。

 

私自身も、自分が慶應っぽいと感じたことがなく、もし別の高校に行って大学受験をしていたならば、どちらかというと早稲田の方がカラー的には合ってるんじゃないかと思っていました。

 

ただ、今回、本書を読んでだいぶ考えが変わりました。

負けん気の強さ、理不尽なものへの憤りの強さ、

人間関係においてことのほか上下関係や身分による差別を嫌い、対等や個々人の尊重を求めるところ、

その時代の世の中の常識に違和感を覚え、異を唱えるところ、

好奇心と探究心の強さ、面白いことが大好き、

何かしようと決めたら、どうにかこうにかそれをやろうと画策するところ、

生真面目というよりは実を取るところ、

実のない論争や争いには関わらないところ、

やりたいことの実現のためや塾のためにお金を欲するし集めるけれども、いわゆる金融や蓄財には興味がないこと、などなど、

ものすごく共感するところが多く、

もしここに諭吉先生がいらしたら、何時間でも一緒に話している自分が想像できます。

独立してみて自分が感じることや発見したこともぜひお話してみたいという気持ちにすらなります。

 

ここは自分の場所ではないのではないか、と思っていたけれど、

いや、ここにはいるべくしているのかもしれない。

高校受験のあの日に、天がそのように差配したのかもしれない、などと思いました。

 

諭吉先生が、「やっとここまできたか」と笑っていらっしゃるような感じもします。

一度も行ったことがないお墓参りも、今度行ってみようかと思います。

 

 

そんなことに気づく2021年も今日で終わり。

今年は冊数はあまり読めませんでしたが、いつも以上に心の向くままの読書だったような気がします。

何かのご縁でこのページを訪れてくださる皆様にとっても、面白い本との出会いの場になっていれば幸いです。

 

どうぞ良いお年をお迎えください。

また来年も、よろしくお願いいたします。

 

 

独立ってどういうこと?はこちらのポッドキャストでも話しています。

お楽しみください!

 

人生本気で変えたい人のコーチ2人の本音トーク・独立後のリアル

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福翁自伝は複数の出版社から出版されています。

私が読んだのは慶應義塾大学出版会株式会社が制作した入学記念品(非売品)で、上記のページ番号はそれに従っています。岩波文庫のものが、同じ富田氏の校注で、最もこれに近いようです。

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