ここみち読書録

プロコーチ・けいこの、心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

川は生きている ー自然と人間ー

西日本を中心とする豪雨により被災された方々に、心よりお見舞い申し上げるとともに、1日も早く日常の生活に戻ることができるようお祈り申し上げます。

 

こういう災害が起きるたびに、自然の本来の姿、人間の自然とのつきあい方について考えさせられます。そう思っていたところに、偶然実家でこの本を見つけ、まさに今読むべき本と思いました。
 
歴史の本であり、地理の本であり、水問題の本であり、環境問題の本であり、また、土や森林の本でもあります。
小学生向けではあるものの、大人にも学びが大きいと思います。
こんな本持っていたっけ、と思う自分自身としては、「大人になって読み直したい本」にまた1冊追加です。
 

川は生きている―自然と人間」(富山 和子著、講談社、1978年初版)

川は生きている―自然と人間

 

日本の歴史は、川の歴史
日本で生活していると、何もかも本当に便利で、どんな田舎に行っても、都会の高層ビルの最上階にいても、蛇口をひねれば水が出てきて、その水がいったいどこからどのように来るのかなんて、考えることもしなくなってしまいます。

 

また、コンクリートの堤防に挟まれた今や流量の少ない川やその周囲が、かつてはどんなところだったのか、想像することもありません。

 

この本は、私たちの水がどこからくるかということや、日本に暮らしてきた人たちが、これまでもずっと「あばれ川(p.15)」をどう治めるか、川とどうつきあうのかを考えてきたことを教えてくれます。 

川も水も、人間が、自然と力をあわせて、つくりそだててきたものです。その日本人の大地とのたたかいのれきしとは、まず、川とのたたかいのれきしでした。(p.12)  
日本の文化とは、まぎれもない川の文化でした。日本人にとって大地は、川のつくってくれた土地であり、自然のめぐみとは川の水と、こうずいがはこんでくる土であり、そして自然のきょういもまた、川の水ーこうずいだったのです。(p.35)

 

歴史の視点から言えば、武田信玄(甲府)加藤清正(九州)による「水にさからわず、自然のせいしつを、じょうずに利用しながら水をおさめようとした(p.24)」治水や、徳川家康による関東平野(利根川)の治水など、建機もない時代の、クリエイティブかつ大胆な発想と偉業には驚きます。

そして、その上に現代の私たちの生活があるのだとも気づかされます。

家康による関東平野の大改造がなかったら、今頃、関東はどんな姿をしているのでしょうか。。。(上記のリンクに、昔の川だらけだった頃の関東平野の地図があります。)

 

川と人間の水のやりとり

また、この本は、かつて、日本人は、川の水と川がはこんでくる土による恩恵を受けつつ、土を介して川と水をやりとりしながら生きてきたことを教えてくれます。

 

豊かな森林が水を蓄えて、湧き水として少しずつ水を流してくれるから、雨が降らない日が続いても、川の水は途切れない。

森林が水を蓄えてくれるから、一度に沢山の土砂が流れてこない。

その水が、植物も動物も人間も養う。

沢山の土の中を通ってくるから、川の水はきれい。

川沿いにひらかれた水田が、遊水池となって水を治めることにつながり、その水田で使われた水も地下水となって川に戻り、また下流の水田や生活を支える水となる。

むかしの日本人の川とのつきあい方は、このように、水をもらったり、あげたりするつきあいかたでした。いまの大都市のように、人間がただ水をとりあげて、ふった雨もつかった水も、下水のパイプで海へすててしまう「つかいすて」とはずいぶんちがいますね。(p.28)

 

川はあばれるもの

同時に、人々が「川はあばれるもの」としてつきあってきたこと、それを抑え込むのではなく、受け入れていたこともわかります。

現代では想像しがたいですが、川は洪水などのたびに流路を変え、以前は川だったところが大地になり、大地だったところが川になる、ということを繰り返していたということを、この本で知りました。大地は本来は変化するもの。その力を人間が制御しようとすること自体、無理があるのかもしれません。

また、洪水の一番の恐ろしさは水が増えることではなく、水の勢いと土砂であること、それのためには時には水が増えることもやむなしとしていたこと、そんなときも命だけは守ろうとしていたことも伺えます。 

「雨がふれば、川はひろがるのがあたりまえだよ。水が引いたら、また土地をつかわせてもらうさ。」
 そんなふうにいうおひゃくしょうさんもいました。水と、みんななかよくくらしたのです。自然とつきあうには、人間も、ときにはがまんしなければならないということを、むかしの人たちはよく知っていたのです。
 きけんな場所に住む人たちは、土を高くもった上に、家をたてました。その高いしき地のおくに、さらに高い二階だてのものおきをつくりました。水がきたら、いつでもにげられるように、日ごろからじゅんびをしたのです。これを「水屋」といいます。もちろん、どの家にも船をそなえました。水害のない年でも、船の手入れだけはおこたりませんでした。(p.37-38)

 

水田も、竹やぶも、森林も、いざ洪水が発生した時には、水の力を弱めてくれたり、土砂もとめてくれる役割を果たしました。

 

いたちごっこ

この治水の方法が変わったのが明治からだと、本書では書いています。

人びとはもう、こうずいといっしょにくらすことに、うんざりしていました。大雨のたびに水につかったり、船でにげたりするのでは、たまらないと思うようになりました。台風の年でも、お米はたくさんとりたいと考えました。雨のたびに水たまりのできるじめじめした土地も、なんとかしてかわかしたいと考えました。どろんこ道もいやでした。ふった雨を、とにかく早く、海へすててしまいたいと思ったのです。(p.53-54)

 

そして、川に高い堤防を築くようになります。

堤防ができて、さあ安心と、川の周囲にあった水田や水田を潰して、家や工場などを建てる。

街が発展し、より多くの人が集まり、より多くの建物が建てられる。

 

けれどもコンクリートの堤防は、土と違って水を吸収しないため、川は「むかしよりもいっそう急な「滝」」(p.59)となります。

 

なので、一度洪水が起きると、被害は以前よりも大きい。

すると人は、

「堤防をもっと高く」「もっとのばせ」「もっと高く、もっとがんじょうに」(p.57)

と堤防の強化を求め、堤防ができるとまた安心して周囲に建物を建て始める。

このあたりの、安心して忘れた頃に災害が発生するというのは、以前に取り上げた「おこりっぽいやま」を思い出します。

ただ、洪水の場合は、(人間の活動による影響はないと思われる地震と違って)人間が自らつくったダムや堤防が洪水の被害を大きくしている可能性もあり、この本の言葉を借りればまさに「いたちごっこ」(p.51)。

また、コンクリートで固めていく治水は、(ここではあまり書きませんが)水不足とも関係していることが本書では説明されています。

 

著者からの警告

どうしたら、この「いたちごっこ」を止められるのか。

どうしたら被害を小さくすることができるのか。

あとがきに、著者の思いが込められています。

 私はこの本で川というものが、単なる一本の線ではなく、よし一本の線でもいい、その線は、じつに重い意味をもつ線であることを書きました。
 おそらくいま、私たちに問われているのは、自然へのゆとりではないでしょうか。一滴の水を受け入れることも許さず、ほこりも虫もきらって人間の都合だけをおしつけ、そのかわりまさかのかんばつや大雨には全滅という危ない綱渡りの道をえらぶか、それとも多少の不便さはがまんしても日ごろから自然を受け入れ、水に対してはにげ方も訓練し、そのかわりにまさかの異常気象にも生命だけはたすかるという、安定した安全の道をえらぶのかの選択です。そしてそれこそは、ゆとりの問題だと私は思います。昔の人たちはそのゆとりをもちあわせていました。そのちえをもう一度とりもどすことができるかどうかが、いま、自然から試されているのです。(p.98)

 

水道・電気・ガスなどの重要な生活インフラを、政府や自治体や水道局、電力会社、ガス会社などに任せきりにできてしまう現代の社会は、ともすると、自分がどのように地球と関わっているのか、どのように自然の上に生かされているのか、自分の生活がどれだけ自然に影響を与えているのか、ということを忘れさせてしまいます。

 

先進国でも、とある国のように生活インフラの不具合が頻繁に起きるようなところだったら、災害を待たずともそういうことを考えたり、体験したりする機会もあると思うのですが、とりわけ、お客様第一文化の日本では、日頃は何かおきても水道局やガス会社や電力会社がなんとかしてくれる、むしろなんともならないとクレームしてしまう、というようなことになりがちではないか、というふうに思ったりすることもあります。
また、予定していた仕事や計画は遂行すべきもの、どんな理由でも遅れてはならない、というような私たちの生真面目さが災いすることもありそうです。
 

今回の災害で、被災した住民の方々の85%が大雨特別警報を知りながら、実際に避難したのは3.6%、予定していた外出をやめたり変更した人は23%、というアンケート結果を聞いて、もしもっと多くの方が避難していれば、と思いつつも、この行動は全く他人事とは思えません。

 

ひとりひとりが、自分の生活環境をもっと自分ゴトとして、何を得ている代わりに何を失っているかということ、その先に何がありうるかということを自覚することや、自分たちの生活環境の維持や保全、自らの安全のために関わっていく、ということが必要だと、感じます。

 

とはいえ、こんなにもコンクリートで固められた土地をどうしていくのか。土木知識に乏しい私には今は何の知恵も浮かびませんが、せめて、こういう本を通じて、自分たちの生活の仕方やまちづくりが地球とつながっていることに気づく人が増えていったら、と願っています。

 

 

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