ここみち読書録

心の向くまま・導かれるまま出会った本の読書録。

RETREAT 森と共に、歩む日々。

先日、株式会社森へが主催する「森のリトリート(ライフ編)」に行ってきました。

リトリート(Retreat)は、直訳すれば、退却、撤退、引きこもる、逃げ込む、といった意味。また、re-treatと読めば、「再び、調える」とも読めます。普段の生活から一歩下がって、心と身体を調え直す時間です。

 

RETREAT 森と共に、歩む日々」(金風舎、株式会社森へ、2016年)は、この「森のリトリート」で訪れる森の、四季折々の写真と、自分を調えるための言葉や問いを集めた1冊です。

読むだけでリラクゼーション。目まぐるしかった1日の終わりにベッドの中でページをめくれば、脳が、目が、肩が、緩んでいきます。

 

RETREATー森と共に、歩む日々。

  

リトリートから戻って、改めて本を開くと、自分が見てきたものが本の中にあり、自分が感じたことが書いてあり、森の中の景色や森の中にいた感覚を思い出します。

 

今回は本の中身というよりも、森のリトリートに行ってきて感じたこと、森から教えてもらったことを書いておきたいと思います。個人的な内容なので、読み手の方に面白いものとなるかどうかはわかりませんが。なお、バイオリズム的には停滞気味のときの体験です。

 

森に入る

今回案内して頂いたのは、山中湖近くの自然の森です。かつての富士山の噴火で降った火山灰の上に、自然にできた森とのこと。2泊3日、スマホも腕時計も預けて、お化粧もせずに過ごしました。

山中湖の湖畔にはもう雪はありませんでしたが、森の中は、まだ大部分が雪に覆われて、でも春の訪れを感じる季節。葉っぱのない森には太陽の光が降り注いで、その陽を浴びたところから雪が溶け始める。倒木の上の苔の中からも芽が出て、虫たちが地面の中から起き始める。まさに啓蟄の瞬間。生命を感じる季節でした。

夜には満月。明け方には富士山の真上に月があり、幻想的な光景でした。

 

ゆっくり、静かに、感じる

基本的に日中は一人で森の中で過ごし、お昼や日が暮れた後に皆で対話をします。

森に入る前、今回ナビゲーターをしてくださった株式会社森への代表・山田博さんから、森で過ごす時の心得を教えて頂きました。

ゆっくり、静かに、感じる(p.23)

いつもよりも何倍もゆっくりと呼吸し、何倍もゆっくりと歩く。そして、目はあまり焦点を絞らずに、ぼんやりと広く見る。普段はPCの画面やスマホなど、目の前のものばかり凝視してしまいますが、上下左右、人間の視界は思いの外広いことに驚きます。

ソフトフォーカスにしていると、本当に、教えて頂いたように、自分の感覚が開いていきます。見えていなかったものが目に映るようになり、聴こえてこなかった鳥の声や風の音が聴こえてきます。匂いにも敏感になります。

 

そうして見て感じる森は、本当に美しい。どこをどんな風に切り取っても素晴らしい絵になります。カメラを持っていかなくてよかったと思いました。もし持って行っていたら、私の場合、写真を撮り続けて、森や自分自身と対話をすることを忘れてしまっていただろうと思います。

 

森から教えてもらったこと

既にこの森のリトリートに行った友人たちや、スタッフの方々から、「森に行くと、誰もがいろんなことに気づいて帰って行く」とか「森に行ったことが人生の転機になった」とか、いろいろな話を聞いていましたが、スピリチュアル的な感性は大して高くないと思う私にも本当に何か起こるのだろうか?と半信半疑でした。

 

そんな私でも、森に馴染んできた2日目の朝、ひとり森の中を歩いていたら、目に映るもの全てのあまりの美しさに、涙が溢れてきて止まらなくなってしまうということが起きました。そして、その先にやってきた森との対話、自分との対話、人との対話においても、幾度か涙が溢れてきました。何かが、琴線に触れたようです。

 

ただ存在しているだけで美しい

この森は誰かが手入れしているというわけではありません。自然の中で、大きな木も、若い木も、出て来たばかりの小さな芽も、ただそこに存在して生命を全うしています。風に倒れた木も、落ち葉も、そのままに存在しています。

ただそれだけのことが、本当に美しいのです。

そのことにとても心が揺さぶられました。

あの枝がもっとまっすぐだったらとか、あの木がもう少しあちら側にあればとか、そういうことは全くなく、今目の前にあるものそのものが完全でした。

 

もっと自分の能力を発揮するためにはどうしたらいいのだろう、どうしたら自分の可能性はもっと開くのだろう。そういうことを考えること自体、何も悪くない。

けれども、最近そう考えるときは、自分にはまだ何かが足りない、何がいけないのだろうと、自分を責めてしまっていることに気がつきました。

 

ホ・オポノポノ 」という本を読んで以来、自分自身と対話をするときには、自分の中のインナーチャイルドに向かって話しかけるようにしています。

自分にはもっと何かできることがあるはず、でもどうしたらいいのかわからない。そんな空回りするような気持ちに囚われていたこの日、森の中でインナーチャイルドにこう話しかけました。「あなたの創造性と才智を最大限に解放してあげられていないような気がしているよ。どうにかしたいけど、どうしてあげたらいいのかわからない。ごめんね。」 

返ってきたのは、「私(インナーチャイルド)の才能と魅力をあなたが知ってくれているのならもうそれで十分。いつもこんなに私を大切にしてくれている。それで十分。」という言葉でした。

 

「存在しているだけで価値がある。」いろいろな人や本が言っているこのことが、こんなに腹落ちしたのは初めてでした。

 

自然の世界に無駄なことは何一つない

木が枝を伸ばし、葉を茂らせる。秋に落ちた葉は養分となって土や生物を育てる。

どんぐりを落とし、そのうちのほんのいくつかが芽吹き、新しい木が育つ。芽吹かなかったどんぐりは、動物たちの食べ物になる。

生命を全うした木は風に倒れ、そこに陽の光が差し込むようになり、そのおかげで今まで日陰に隠れていた木が育つ。倒木となって横たわった木の上にはふかふかの苔が育ち、そこはまるで小さな虫にとっては大きな森のよう。次第に木も朽ちて、ぽろぽろと土に返り、目には見えない無数の命のための大地となる。

本来の自然の中には、無駄なものは何一つない。そして循環している。それ自体で完全。

 

自然の世界はどこまでも精緻にできている

苔に鼻の先が触れるまで顔を近づけてみれば、細部の細部まで、どうしてこんなに精緻にできているのだろうと感嘆してしまいます。

虫は嫌いですが、地中から起きてきたばかりのコオロギの体の細部を注意深く見ると、あまりに完成したつくりから目が離せなくなりました。

 

日常生活に戻って沢山の建物や溢れるモノを見て、一体今の世の中で、この精緻で完全な世界を壊してまで、人間がつくるべき価値があると言えるものは、どれくらいあるのだろうか、などという問いが浮かんでしまいました。また、欧米に比べて自然をコントロールしようとする日本の自然との付き合い方にも、改めて疑問が湧いてきます。

 

今、この瞬間

滞在しているわずか3日の間にも、森は、刻々と表情を変えていました。

前日に一度溶けた雪が水になって、今度は凍っている。分厚い透明な氷の奥に、凍るときに閉じ込められた落ち葉が何層にも重なって、それ自体が美術作品のよう。

もう1時間後に来ても、私が見たものではなくなっている。誰かに見せたいと思っても、後で一緒に来たとしても、もう同じものは見せられない。こうやって伝えようとしても、伝えきれない。

このもどかしさ。何かを一緒に体験した人とは親密度が増すと思いますが、それは、この「今しか見れないもの」を一緒に見たという体験が、そうさせるのかもしれません。

 

同じ風が吹いても、揺れる葉もあれば揺れない葉もある

終始、穏やかで良い気候に恵まれましたが、時折、風も吹きました。そのとき、ほとんど同じ場所にあるのに、風に吹かれて揺れる葉と動かない葉があることに目が留まりました。葉の場所のわずかな違い、風を受ける角度、大きさなどが影響しているのだろうかと思いました。

いろいろ企画したり、実行してみたりしても、あまり大きなインパクトが起きなくてがっかりしてしまうときもあります。ついつい虚しい気持ちに襲われますが、それは、その人たちの角度が風を受けるようになっていなかったということだけなのかも。ちゃんと届くべき人には届いている、風が吹いて、葉が一枚も揺れないなんていうことはない。

 

何も起きていないように見えても、目には見えないところで必ず何か起きている

これも似たような話です。

啓蟄だったこの時期だったからこそ、余計に強く感じられたものかもしれません。

雪をかぶって静かに見える森の中でも、雪の下で、植物や昆虫が目を覚まし始めている。土の中では無数の小さな虫やバクテリアがうごめいている。

誰かに何か話しても、たいして響いてなさそうなときもある。自分がコーチングを受けていても、すぐには劇的な変化が起きるわけではないこともある。ではそれは何のインパクトもなかったかというと、そういうわけじゃない。(自分も含めて)誰かの何かの行動の先には、一見、何も起きていなさそうでも、どこかに必ず何かしらのインパクトは起きている。それが目に見えてくるのはだいぶ先のこともあるかもしれないけれど。

成長していないと思うときでも、きっと、やってきたこと、今やっていることは無駄にはなっていない。そう教えてもらったように思います。

 

幸せの形は一つではない

今回のリトリートに参加するとき、自分で持って行った問いは、「私にとって幸せって何だろう?」というものでした。これだ!というのが見つかるといいなと思っていました。

ですが、私が今回、森からもらった回答は、「幸せの形は一つではない」ということでした。

その答えはこんな風にやってきました。

3日目の朝。何かと大小様々に過去を悔やんでしまうことが多かった最近を振り返りながら、スタッフの方々が「マザーツリー」と呼ぶ木に抱きついて、「いろいろなことがうまくいかない。何が私の幸せかわからなくなってきた。」と話しかけました。すると、マザーツリーは、「あなたはいつも、うまくいっていないものばかりに注目するのね。あなたが問題だと思うから問題になるのよ。」と。

幸せになるには、このカードと、このカードと、このカードが必要、全部揃ってこそ幸せ、というように考えてしまっている自分に、はたと気づきました。その中にもとても重要なカードがあって、それが手に入らない限りは、手に持っている他のカードには全く価値を感じていなかったりする。そして、おそらく、欲しかったカードを手にいれると、また更に次のカードを求め始め、それが手に入らないと欠乏感を感じてしまう。

改めて自分自身や自分の周りの見回せば、喜ばしいこと、ありがたいことは沢山あります。ただそれを幸せなことだと認めていないのは自分なのだと、幸せというのはこういう形をしている、こういう要件が揃っていることが必要、と決めているのは自分なのだなと、気づかされました。

 

幸せな気持ちを十分に味わっても良い。その状態から更に幸せなことが起きることを楽しみにして良い。

まだあの幸せは手に入れていない、手に入れなくては、と求めてしまうのは、「求め続けなければそれは手に入らない」、と私が思い込んでいるからだということにも思い当たりました。「求めよ、さらば与えられん」、だから、求めなくては、と。

これもマザーツリーに聞いてみました。「現状に満足してしまったら、欲しいものがもう手に入らないような気がして怖い」と。

マザーツリーの答えはこうでした。「今の幸せを十分に味わっていいのよ。そして、その先に更に幸せなことが起きるのを楽しみにしていていいのよ。」

力がふっと抜ける感じでした。

 

自分を開けば、求めていたものがやってくる

マザーツリーとの対話を経て、その時の今をそのまま、つまり、こんなに穏やかに晴れた日に、青空の下で、きれいな鳥の声を聴きながら、雪の上に仰向けになり陽の光を浴びている、その幸せを体いっぱいに感じることができました。

心から満たされている感じです。

身体中が満たされて胸のあたりが膨らんでいく感じを味わいながら目を閉じていたら、瞼の裏で、鹿やリスがよってきて私をつついている、という映像が浮かびました。どちらも、この滞在中に出会いたかったものです。残念ながら実際に起きたことではないのですが、自分が満たされて開いていれば、出会いたかったものに出会えるということを思わせてくれる体験でした。

 

対話の力

この極めて個人的な体験が、文字の形でどこまで伝わったかわかりませんが、少なくとも、「わずか数日の間にいろいろなことを感じた」、ということだけは伝わるのではないかと思います。

これには、スタッフの方々や他の参加者の方々との対話の力も大きかったと思います。

感じていることを言葉にする、特に、「口にする」ということは想像以上にパワフルです。自分の内側で起きていることを自分のノートに書くことはおそらくそれほど抵抗なくできると思いますが、それを口にするということは、なかなか勇気を伴うものです。口を開いても、言葉を発しようとすると体が抵抗する。それを超えて口にしてみると、不思議なことに、それがもう問題ではなくなる。浄化のような効果を感じました。

また、それを聴いてくださる皆さんが、沈黙のまま、受け止めてくれているのがとても心地よい。自分が聴いている時も、沈黙が、人の言葉を味わう時間をくれます。

日常会話では、つい埋めてしまいたくなる沈黙。

森での対話では、むしろ余計な言葉で汚したくない、そのまま静かに味わいたい、という感覚がありました。

焚き火は、こんな対話に最適なものです。自然に沈黙していられます。熾火(おきび)が煌めくのを見ているだけで、何の言葉もいりません。大切な時間を共有している気持ちになります。

 

ただ森の中にいただけ。ですが、自分で思っていた以上に濃い体験だったようで、帰ってきて数日は、喋ろうとしてもうまく言葉が出てこない、という不思議な体験をしました。

どれも、言葉にしてしまえば当たり前のこと。頭では誰もがわかっていること。でもそれを森の中で「感じる」ことは、「頭でわかる」こととは違うインパクトがありました。

 

スペース

いろいろ感じはしたけれども、じゃあ、一体何を得て帰ってきたのか。核心でいうと、今、一番大きな収穫は、スペースが大事、ということだと感じています。

ソフトフォーカスにして見る世界の中には隙間があり、だからこそ見えてくるもの、聴こえてくるものがありました。

沈黙しているから味わえるものがありました。

何も考えずにいるから湧いてくる感情がありました。

戻ってきてから、音楽のない沈黙の空間が苦でなくなっていることが一つの変化です。また、空いている日があれば埋めていたスケジュール表も、今は、隙間があるくらいが心地よく感じます。

また、ハイテンション・超ご機嫌、というわけではないニュートラルな時間を、物足りないと思わなくなった、何かで埋めようとしなくなった、というのも、つい刺激を求めがちな私には新しい次元です。

 

こんなスペースを感じさせてくださった、ナビゲーター及びスタッフの方々、ありがとうございました。

 

山中湖の森はやさしい森でした。「そうだ、私は登山がしたいわけじゃない、散策したかったんだ。」と自分の好きなものを再確認しました。こういう場所が日本にももっと増えるといいなぁと思います。

 

春夏秋冬、森の景色はいつも変化し、私たちひとりひとりもまた日々変化しています。だから森に行って感じることは、人それぞれであり、人生の時期によっても変わってくる。

 

きっと、人それぞれに森に呼ばれる時期というのがあると思います。

是非、ご自身のタイミングで、森へ行かれてみてください。

 

 

RETREATー森と共に、歩む日々。

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このあたりも読みたくなります。

センス・オブ・ワンダー

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森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

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森は生きている (新装版) (講談社青い鳥文庫)

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